8年前の11月。
小学3年生の良く晴れた秋の日、
「お帰り、桜雨ちゃん。お母さん、さっき病院に行ったから、お父さんもいってくるね。後で、電話するから」
修二さんはお財布を握りしめて、お仕事のエプロン姿のまま、玄関を飛び出していきました。
「二人とも、お帰りなさい。修二君、行ったみたいね」
玄関の左側のドアが開いて、桃華ちゃんのお母さん・美世さんが顔を出しました。
「「ただいま~」」
「桜雨ちゃん、お母さん、赤ちゃん産むんで病院行ったからね。お父さんからお電話来たら、皆で病院に行きましょうね」
美世さんは優しく言いながら、桃華ちゃんに2人分のプリンが乗ったお盆を渡しました。今日のオヤツです。
「お母さん、赤ちゃん生まれるの?」
「そうよ。桜雨ちゃん、もう少しでお姉ちゃんね。
オヤツは、手を洗ってから食べるのよ」
もう少しで、お姉ちゃん!
その言葉にドキドキし始めた主の頭を、美世さんは優しく撫でて、お店に戻って行きました。
「やだ、どうしよう」
「桃ちゃん?」
「すんごく、ドキドキしてきちゃった」
プリンが乗ったお盆を持ったまま、桃華ちゃんもドキドキし始めたようです。
「うん。私も、ドキドキしてる」
「… あのね、桃ちゃん」
「一人は駄目よ」
主の考えはお見通しな桃華ちゃんは、ニッと笑いました。
美世さんの手作りプリン、主と桃華ちゃんは1つを半分こにして、美味しく食べました。もう1個のプリンはラップをかけて、保冷剤と一緒に保冷バックに入れました。
二人は首からお財布を下げて、色違いの苺リュックを背負いました。
桃華ちゃんのリュックは真っ赤で、中には昨日まで主のお母さん・美和さんが食べていた、おからクッキーが入っています。これも、美世さんの手作りです。
主のリュックは濃いピンク色で、中には1年前に顔も知らない男の子が貸してくれた、黒い折りたたみ傘が入っています。あと、美和さんが産まれてくる赤ちゃんのためにと作った、毛糸の靴下。
プリンの入った保冷バッグは、主が大切に持ちました。
二人は、玄関の靴箱の上にお手紙を置いて、元気に出発しました!
目的地は、美和さんが赤ちゃんを産んでいる病院です。
その病院は、お家のある商店街からバスに乗って10分。3つ目のバス停で降りて、10分歩けば到着です。けれど、二人は子供だけでバスに乗ったことはありませんでした。誰か大人か、中学生の桃華ちゃんのお兄さん・梅吉さんが一緒でした。
「ドキドキするね」
「うん。でも、もう、お姉ちゃんだもん」
二人は何度もバスの行き先を確認して、乗る時には運転手さんにも確認して、初めて子供だけでバスに乗りました。
「N産婦人科のバス停は、次だよ」
同じバス停から乗ったおばあちゃんが、優しく二人に声をかけてくれました。
「「ありがとうございます」」
「お母さん、赤ちゃん生まれるの?」
「うん。私と桃ちゃん、今日、お姉ちゃんになるの」
「そう、素敵だわね。気を付けてね」
おばあちゃんにお礼を言ってバスを降りると、二人のドキドキは更に強くなっていました。けれど、慣れない商店街に立つと、ちゃんとつくのか不安も出てきました。二人は、ギュッと手を繋ぎました。
「君たち、迷子?」
そんな二人に、痩せたオジサンが声をかけてきました。
口元がニヤニヤとだらしないなぁ… と、桃華ちゃんは思っていました。
主は、そのオジサンの目が何となく嫌でした。
「「違います」」
だから、二人は強く言い切ると、手を繋いだまま歩き出しました。
速足で。
「おじさんが、良いところに連れて行ってあげるよ。遊びに行こうよ」
大人の男の人が、子供の足に追いつくには、簡単です。オジサンは、数歩で主の肩を掴みました。
「やっ!!」
主は怖くなって体が強張って、小さく悲鳴を上げた瞬間、そのオジサンの手は、
パシッン!!
と乾いた音と共に、主の肩から弾かれました。
「痛ってぇ… おい、ガキ!!」
主とオジサンの間に、サッと影が入り込んで、主を背中に庇ってくれました。
あまりの速さに、周りの人たちも動くのを忘れて見守っています。
「
「桃ちゃん…」
桃華ちゃんが主を抱きしめます。その肩越しに、助けてくれた人の後ろ姿が見えました。
髪は少し硬そうな、黒のベリーショート。竹刀を構えた細身の白の学ラン姿で、袖口には細い朱の3本線。黒いスニーカーを履いていて、少し高めの身長です。
「オジサン、警察呼んだから」
主と桃華ちゃんの前に、青年と同じ制服を着た梅吉さんが、携帯を片手に立ちました。
「お前ら、ガキの分際で…」
「あのね、オジサン…」
会話の途中で、竹刀を構えた青年は、オジサンに容赦なく竹刀で打ち込んで行きました。
それを、主と桃華ちゃんは、抱き合ったまま見守っています。
「まっ… やめ… ごめん… ごめんなさい… ごめんなさい!!!」
散々、腕や足を竹刀で打たれたオジサンは、泣きながら逃げていきました。周りから起る、拍手の嵐。
「お疲れ様~、
桜雨ちゃん、桃華ちゃん、大丈夫?」
梅吉さんが、優しく二人に声を掛けると、主と桃華ちゃんは滲み出ていた涙を、袖で拭いました。
「ありがとう」
「ありがとう、梅お兄ちゃん。
あの… あのお兄さんは?」
怖くてドキドキしていたはずなのに、違うドキドキに変わり始めていました。
主は、青年の顔が視たくて、目が放せません。けれど、光の加減で、顔がハッキリ見えません。
「ん? ああ… 三鷹」
少し先に投げ捨てていた鞄や、剣道の道具を取ってきた青年は、梅吉さんに呼ばれましたが、そのまま人込みの中にまぎれて行きました。
「三鷹、ありがとう! また明日な!!」
見えなくなる後ろ姿に、梅吉さんは大きな声を投げました。
梅吉さんは、家に電話を掛けたあと、主と桃華ちゃんと一緒に、病院に行ってくれました。三人が病院に着いたタイミングで、主は元気な双子の男の子のお姉ちゃんになりました。
「ちっちゃいねぇ…」
「かわいいねぇ…」
新生児室のガラス越しに見た弟たちの寝顔を、主も桃華ちゃんもニコニコで見ていました。