「動いちゃダメだからね」
激しい雨の音に、緊張した大森さんの声が混ざりました。昼休みも終わり、5時間目の英語が自習になったので、教室は少し賑わっています。
窓際の、後ろから2番目が主・
そこで、お友達の大森さんと向かい合って座って、爪をいじってもらっています。
「家のお手伝いも大事だけど、たまにはこういうのも良いでしょ?」
従姉妹の
「動画ではたまに見てるけど、直に見るのは初めてだわ」
桃華ちゃんは、ジッ… と主の爪を見ているけれど、大森さんが使っている道具も技術の名前も分かりません。
「「私も」」
そんな桃華ちゃんに、田中さんと松橋さんも同意します。
「皆、勉強しすぎ~。せっかく、女の子に生まれたんだから、お洒落しなきゃ勿体無いじゃない。人生、楽しんだ者勝ちって、言うでしょ」
大森さんが、唇を尖らせました。
「あら、私は勉強するの、楽しいわ。知識を増やすのは、とても有意義よ」
「わ、私は… 手芸が楽しいです」
大森さんに、田中さんと松橋さんが答えます。
「可愛い物や、綺麗な物を見るのは好きよ。お洒落も、ちょっとしたものなら、
「ちょっとしたマニキュアなら、たまに桃ちゃんとお出かけの時とかにつけてみたりするけど…」
主も、自分の爪が変わっていくのが不思議で、面白くて、興味津々に見つめてます。
「「これは、初めて」」
「出来た!」
「「「「わぁぁぁぁ…」」」」
主の10枚の爪が綺麗に整えられて、爪の先に向かって、うっすらと白から桜色のグラデーションにキラキラ光ってます。キラキラはとっても控えめだけど、それがかえって、白いセーラー服に合います。
「ゴテゴテするのは嫌だって言うから、これだけね」
左のお姉さん指にだけ、ポッコリと立体の物がくっついていました。
「カエルちゃん…」
僕です。主の左のお姉さん指に、ニコニコした僕がくっついてます。頭には、キラキラした真珠の粒が付いた、金色の王冠をかぶってます。
「本当は、桜の花や花びらを散らそうと思ったの。白川さんの名前通りに」
「『
大森さんに、桃華ちゃんが主の爪を眩しそうに見ながら言いました。
「そーなんだ。じゃあきっと、白川さんが生まれた日は優しい雨が降ってたのね。子供っぽいかな? って思ったんだけど… 白川さん、いつも味気ない男物の折りたたみ傘、持っているでしょ? そこにカエルのシールが付いてるから、カエル、好きなのかな? って思って。似せて作ってつもりだけど、似てるよね? もうすぐ梅雨だし、王子様、好きでしょ?」
味気ない折りたたみ傘… 僕の事ですね。主は、折りたたみ傘の持ち手についてる
意味ありげな笑顔に、主のほっぺは、うっすらと赤くなりました。
「… うん、好き」
主は爪の僕を見つめて、ニコニコしながら呟きました。
「大森さん、よく見てるわね」
「意外と、人間観察が好きなの」
桃華ちゃんに笑いながら答えて、今度は松橋さんを手招きしました。
「プリント、回収」
そのタイミングで、自習用に配られたプリントを回収しに、ベスト姿の
「やば、松橋さん、後でやらせてね」
「う、うん、こちらこそ、お願いします」
席を離れていたクラスメイト達は、慌てて自分の席に戻りました。松橋さん、田中さん、大森さんも、バタバタと席に戻ります。今まで大森さんが座っていた席に、桃華ちゃんが座りました。桃華ちゃんの席なんですが… その綺麗な顔が、微妙に面白くなさそうです。
「遊びすぎちゃったね」
コソっと桃華ちゃんに呟いてから、主は提出用のプリントをやり始めました。チラっと、三鷹さんと爪の僕を見ていました。
「… そうね」
桃華ちゃんはつまらなさそうに呟いて、窓の外を見ました。朝から激しく降る雨は、まだまだ止みそうにありません。ムスッとしたまま、桃華ちゃんもプリントをやり始めました。
クラスの全員が無言でプリントをやっているのを見て、三鷹さんは終了5分前に教室のドアに手を駆けました。
「白川、プリント回収頼む」
「は、はい」
ボソッと言った三鷹さんと目を合わせて、主が返事をしました。
それに満足したんでしょうか? 出ていく三鷹さんの口元が、ちょっとだけ上がっていた気がします。
終了のチャイムが鳴ると、主が言わなくても、プリントは集まりました。そのプリントを、主と桃華ちゃんは放課後に職員室に届けに行きました。
「職員室に来るなら、ついでにお願いしよう」
と、担任の笠原先生のお手伝いで、呼ばれたのでした。
「東条さん、これをお願いしたいんです」
職員室に入るなり、桃華ちゃんは入り口近くにある、共同のテーブルに案内されました。プリントの山が5つほどあります。
「ホチキス止めですか?」
「そう。そんなに時間はかからないんだが、一人でやる気も起きなくてね。
水島先生はミニテストの採点で忙しいらしいし、君の兄上はそんな水島先生のお手伝い。購買のメンチカツで買収されていましたよ」
桃華ちゃんは笠原先生の話を聞きながら、もう手が動いていました。慣れた手つきで、5つの山から1枚ずつ取った束を交互に乗せていきます。
「… ジュース1本ですからね」
「ありがとう」
笠原先生はお礼を言いながら、桃華ちゃんの隣で5枚1組になったプリントをホチキス止めを始めました。
そんな二人を見ながら、主は英語の先生の机に皆から回収したプリントを置きました。
「白川」
「はい」
不意に、ミニテストの採点をしていた
「これ」
下から救うように両手を取られて、主のドキドキはちょっと、どころじゃなくなりました。三鷹さんの視線が、主の爪に釘付けです。
「あ、お友達が、たまにはいいんじゃないって… すみません、校則違反でした」
手を触られて、校則違反を見つかって、視線を感じて… 今の主は、プチパニックです。
「俺以外、誰にも見せるな。特に…」
三鷹さんは筋張った大きな手で、優しく主の指先を握りました。右手の親指の付け根に、小さなホクロが見えました。
「このカエル」
放課後の賑わう職員室で、主の耳はいつも以上に控えられたその声を、確りと拾っていました。その証拠に、ほっぺどころか、耳や首まで真っ赤です。
「… き、気を付けます」
主がようやくそれだけ言うと、三鷹さんはそっと手を放しました。すると、主は爪を隠すように手をグーにして、ぺこっ! とお辞儀をして桃華ちゃんの所まで飛んでいきました。
「三鷹ぁ~」
「校則違反の生徒に、指導しただけだ」
隣の席で全部見ていた梅吉さんの唸り声に、三鷹さんはシレっと答えて、採点を再開しました。