第86回目の体育祭は、学年優勝3年・チーム優勝F組・総合優勝3年F組で、終了時間をだいぶ過ぎて幕を閉じました。
係じゃない子も、中等部の生徒も、保護者も、皆が片付けを手伝ってくれたおかげで、下校時間は予定より少し遅くなったぐらいで済みました。
僕の主の
「今年の救急車は、3人ですか。あの内容から言って、少なく済んだ所でしょうか。しかし… 毎年のこととはいえ、そろそろPTAから苦情が入ってもおかしくないですね」
笠原先生は、自分の机で書類に何やら書き込みながら、埃まみれになった、ぼさぼさの頭をかきました。
「しょうがないんじゃないですかね? 皆、競技が始まったら、熱が入り過ぎちゃうから。救急車っていっても、念のためでしょ?
重傷者はだしてないし、体育祭でストレス発散する人もいるから、良いんじゃないかな? って、思いま~す」
「… 松橋さん、救急車で病院に行かなくて良かったのですかね?」
「擦り傷と打撲みたいだし、本人がそこまでしなくていいって。帰りも、大森さんの大学生の彼氏が車で迎えに来てくれて、田中さんも一緒に、4人で帰りましたよ」
笠原先生の隣、梅吉さんの机の椅子に座って、桃華ちゃんはスズランテープを編み編みしていました。
母の日のお花を飾る小さな籠は、とても好評でした。それに味を占めて、今は主とお揃いの夏用のバッグを作っているようです。
「ふむ… いい傾向ですね」
「生徒の心配は当たり前でしょうけれど、ご自分の体も労わってあげてくださいよ。
先生、明日、起きられるんですか? あんなに活躍したんだから、明日は筋肉痛、酷そうですね」
机の上、スズランテープの横に置いているスマホが、小さく鳴りました。
「ご心配、ありがとう。そこまで、鈍ってはいませんよ。まぁ、沢渡先生は、2日間は上手く動けないでしょうけれど」
「代休って、本当にありがたいわ」
笠原先生は書類を書きながら、桃華ちゃんはスマホをいじりながら、話をしていました。
そんな二人とは別行動で、主と
他の生徒も掃除をしてくれたけれど、主は梅吉さんを待っている間、仕上げのお掃除をかって出ました。すると、三鷹さんも、無言で雑巾がけを始めました。
掃除するのは良いんですが、日が暮れて人の気配がない廊下は、正直言って怖いです。
カーン…
ほら! 今、何か、上の階から音が聞こえましたよ!!
「梅吉兄さんかしら?」
主は雑巾がけの手を止めて、近くにいた三鷹さんと顔を合わせました。
「… 時間的に、3号館だ。見てくるから、
三鷹さんは腕時計を見てから、職員室を指さしました。
「一人じゃ、危なくないですか? 私も一緒に…」
「危ないかもしれないから、職員室で笠原と東条と一緒にいなさい」
三鷹さんは、不服そうな主の頭を撫でながら、ため息をつきました。
「すぐに、戻る。無理はしない」
「… 約束、してください」
そっと、主は右手の小指を出したのに、三鷹さんはポンポンって、主の頭を軽く叩いて行ってしまいました。行き場のなくなった小指をぴょこぴょこさせて、主はちょっと溜息をつきました。
「カエルちゃん、私、やっぱり妹みたい」
廊下の隅っこに置かれていた小袋から僕を取り出して、主はキュッと抱きしめてくれました。とっても、悲しそうな声です。
カラカラカラ…
三鷹さんの向かった方向とは逆の方から、ソーっと、ドアが開く音がしました。暗い廊下の奥で、大きな影が見えました。
「… あ、近藤先輩」
その影が、主の方に向かって歩いてきました。廊下の電気が届くところまで来ると、見慣れた顔が…
「凄いですね」
近藤先輩の顔は、左右アンバランスに腫れていて、特に、騎馬戦で切れた右目の上も目が隠れるぐらい腫れちゃってます。鼻血を止める鼻栓も突っ込んだままで… ぱっと見は誰だかわかりません。
「慣れっこさ。すまない、こんな顔を見せてしまって。怖いだろう?」
「いえ、ビックリはしましたけど、大丈夫です。
こんな時間まで、どうしたんですか?」
「救急車を断ったら、せめて鼻血を止めてから帰れと、顧問に怒られてね。
ついでに顔も冷やしていたんだけれど、思っていたよりボコボコだったみたいだ。氷嚢が気持ちよくて手放せないでいたら、こんな時間になってしまったよ。
先生は先に帰ったから、鍵を職員室に返そうと思ってね」
そう言って、近藤先輩は情けなさそうに笑いました。
「インターハイ、狙っているんですよね? 気を付けてくださいね」
主が眉をハの字にすると、目尻も下がり気味だから、余計に泣き出しそうに見えます。
「白川君…」
主の何処を触ろうとしたんでしょうか? 近藤先輩は上げた右手を、思いとどまって握りしめて下ろしました。
「その… もし、インターハイ出場が決まったら、応援に来てはもらえないだろうか?」
「私の応援で、良いんですか?」
「君の応援が良いんだ。その… 今回、東条先生達に敗けて、君に告白する権利は得られなかったけれど…」
近藤先輩、歯切れがとても悪いです。
「いつも、思うんです。私や桃ちゃんに告白してくれる人たち、凄く勇気があるなって。私も好きな人が居るけれど、今はまだ駄目なんです。
私がまだ、幼いから… 告白したら、迷惑かけちゃうし、振られちゃうの、分かっているから。
年なんか関係ないです、貴方が好きで好きで、しょうがないんです! って、言えないんです。弱虫なんです、私。だから、告白してくれる人たち、皆、凄いなって。自分の気持ちに正直になれるって、いいなって思うんです。」
「白川君… 辛くはないのかい? もしかしたら、その人に明日にでも恋人が出来てしまうかもしれないよ?」
「… それは、私よりも、その人が魅力的だったということで… きっと、凄いショックで、いっぱい泣いちゃうと思います。それでも、諦めきれなかったら…
卒業したら、告白するつもりです。駄目って分かっていても、自分のエゴだとしても、自分の気持ちに嘘は付けないから」
「じゃぁ、万が一、白川君がその人に振られたら、もう一度交際を申し込んでもいいかい?」
主は一瞬、驚きました。でも、直ぐに微笑んで頷きました。
「その時、先輩がまだ私を好きでいてくれたなら。お受けするかは、わかりませんが」
「もちろん、君は自分の気持ちに素直でいてくれていいんだ。
同情の付き合いはいいよ。
ちなみに、白川君の心をつかんで離さない人は、どんな人なんだい? ここまで君に思われているなんて、本当に羨ましいな」
近藤先輩の切なそうな? その表情は、傷の痛みのせいでしょうか。
それとも…
「桜雨、修二叔父さんが迎えに来てくれたわ」
職員室から、桃華さんの呼ぶ声が聞こえました。
「… 王子様です。カエルの、王子様。
先輩、インターハイ出場したら、ちゃんと応援に行きますね」
主はほっぺを赤くして言うと、お辞儀をして職員室へと入っていきました。そんな主を、近藤先輩は片手を上げて見送ってくれました。
「帰れるのか?」
いつから居たのでしょうか? 直ぐ近くの階段の影から、三鷹さんが出てきました。
「遅くまで残って、すみません。見かけより、大丈夫です」
近藤先輩は、急に出てきた三鷹さんに驚きました。
「脳や視神経が心配だ。一応、この病院に行きなさい。連絡を入れておく」
そう言って、三鷹さんはジャージのポケットからお財布を出して、中から一枚の名刺を近藤先輩に渡しました。次にスマホで、どこかに電話をかけ始めました。
「鍵」
呼び出し音を聞きながら、三鷹さんは近藤先輩に向かって手を広げます。
慌てて、近藤先輩はその手の上に、保健室の鍵を乗せました。
「保健の先生を呼んでくる。一緒に行くように。タクシーの領収書、保健の先生が貰い忘れない様に、見とけ」
そこまで言うと、ようやく電話が繋がったみたいで、三鷹さんは何やら話しながら、また階段を上がっていきました。
「カエルの王子様か… とりあえず、インターハイ出場しなきゃだな」
1人廊下に残された近藤先輩は、受け取った名刺を見ながら呟きました。