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第6話 クロッキーします

 皆さんこんにちは。桜雨おうめちゃんの傘の『カエル』です。

 今日も無事に授業が終わりました。今は、部活の時間です。新入生レクリエーションの後、仮入部で来た1年生は34人でした。そこから1週間の本入部では、28人になっていました。その28人の新入部員を交えて、今日の活動はクロッキー(速写画)をするそうです。


「クロッキーは、短時間で簡潔に描くことを言います。最初は、イメージした通りに描くことが出来ないと思います。けれど、続けていくことによって、描く対象の特徴を瞬時に見つける能力と、それを伝える能力が上がります。対象の特徴・本質を的確にとらえて素早く描くことが出来る、画力が上がるんです!さて、クロッキーで必要なのは、紙とペンです。消しゴムは使いません。そして、出来るだけ一本の線で描きましょう。迷い線は少なければ、少ない方がいいです。けれど、慣れないうちは気にしなくていいです。

描く!とにかく、描く!描いてみたいものを、ドンドン描いていきましょう

各部、各教室、各施設の担当教諭には許可をもらっているから、本当に好き勝手描いちゃっていいわよ~」


 そう言って、美術部顧問の先生から、部員全員に新しいクロッキー帳と鉛筆を1箱づつ配られ、部員達は美術室から校内に散ったのが10分前でした。

 毎年新学期が始まって、5月のゴールデンウイークあけまでは、部員全員でクロッキーをするのがこの部の習わしの様です。


 僕の主は、1人の先輩と1人の同級生、3人の後輩と、迷わず武道場の2階に来ました。この武道場は大きくて、1階は弓道部、2階は剣道部、3階は柔道部が使っています。

ちなみに、隣の武道場は1階で薙刀なぎなた部、2階で空手部、3階には50メートの開閉式室内プールがあって、水泳部が使っています。


 主達は扉できちんと一礼して、邪魔にならない端っこでクロッキー帳を広げます。

 竹刀のぶつかり合う音や気合が部屋に響く中、主はお目当ての人を見つけ、ジっとその動きを目で追いかけます。

 身長は誰よりも高くて、動きも素早いその人のたれには、『水島』と黄色の刺繍がされています。激しく打ち合う姿に、主はしばらく見とれていました。


桜雨おうめちゃん、手が止まってるよん」


 そんな主の手元を、横から胴を付け、面を小脇に抱えた梅吉さんが覗き込みました。首から下げたタオルで、頭から顔から流れ出る汗を拭いています。


「あ、梅吉兄さん、お疲れ様です。今、今、来たばかりなの」


 眉を下げて笑いながら、主は慌ててペンケースから鉛筆を取り出しました。


「そう? 三鷹みたかばっか描いてないで、たまには俺も描いてよ。

 新入部員、今年は多く入ったから、三鷹のヤツ張り切っちゃっててさ。

今日、この後デモンストレーションするんだけど、あんな三鷹の相手出来るの、俺しかいないでしょ? 顧問の沢渡先生、来年定年よ ?剣道経験なんて3年もないから… 今日も、2年が数名吐いてるしね」


 確かに、三鷹さん、容赦なく打ち込んで行っています。相手は、休む暇もなさそうです。


「俺、アイツのペースに合わせるのやっとなの」


「… お夕飯、精のつく物にします」


「うん、そうしてくれると、嬉しいなまだ、今週、始まったばかりだから」


 三鷹さんは、いつもは口数も少なく、滅多な事では怒鳴ったりしません。

世界史の授業も、とても温和です。温和なので、私語が多いと聞こえなくなります。が、注意することなく授業は進むし、抜き打ちの小テストもバンバンやるので、生徒たちは静かに授業を受けていたりします。

 けれど、剣道となると違うみたいです。そんな激しい三鷹さんも、主は好きなようで…


「いいな…」


 と、見とれちゃうわけです。


「子猫ちゃんは、美術部なんだね」


 梅吉さんの反対側から、小暮先生が主のクロッキー帳を覗き込みました。

次の瞬間、主は梅吉さんの方に思いっきり身を寄せ、小暮先生は飛んできた剣道部の人と壁に挟まれました。


 バァン!


 小暮先生の眼鏡が落ちました。

 慣れていない美術部員達はサーっと顔色を無くし、剣道部の1年生は練習する手が止りましたが、2年生と3年生は慣れたもので、練習を続けています。

 主も慣れているので、伸びてしまっている剣道部員を、梅吉さんと一緒に覗き込みました。


「あちゃー、3年生かと思ってたら、沢渡先生じゃん。

マネージャー… あ、いいや、近藤! この二人、廊下で面取って休ませて」


 梅吉さんはマネージャーさんに声を掛けようと、周りを見渡しました。すると、ちょうど柔道着姿の近藤先輩が入って来たのが見えて、大きな声で呼びました。

 どうやら、飛ばされたのは顧問の沢渡先生らしいです。


「すみません、自分、沢渡先生に伝言が…」


 呼ばれて駆け足で来た近藤先輩に、梅吉さんは数メートル先で興奮を抑えることなく構えている三鷹さんをジッと見ながら、真面目な顔で正座をすると、頭に手拭いを巻きながら答えました。


「ここで防具付けて伸びてるのが、沢渡先生。その下で伸びてるのが、小暮先生。今、副顧問の水島先生は臨戦態勢にはいっているから、伝言は後だな。あと、まだ死にたくなかったら、今は桜雨に近寄るなよ。

 マネージャー、デモンストレーションやるから、皆を端によけて」


 面を付けながら、梅吉さんはマネージャーさんに指示を出します。周囲の空気が変わりました。緊張感が漂っています。


「三鷹、やりすぎ」


 梅吉さんが三鷹さんの前に立った瞬間、激しい打ち合いが始まりました。どちらも譲りません。二人の怖い程の気迫に飲み込まれて、その場の誰も動くことも目を放すことも出来ませんでした。主を抜かしては。


「梅吉兄さんも、三鷹さんも、凄いなぁ…」


 もう、デモンストレーションの域を超えていると、僕は思います。そんな二人を見て、主はウキウキとクロッキーする手を動かしていました。

 この日、主の真新しいクロッキー帳は、1日で半分以上埋まりました。もちろん、クロッキーしたのは、梅吉さんと三鷹さんの打ち合いです。けれど、主と一緒だった美術部員さん達は、結局1ページも描けていませんでした。



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