「目があうんだよ」
鬱々とした呟きは、彼女の手にしているカップに落ちた。
「鼻も、口もあるんだ」
視線も熱い珈琲の入ったマグカップに落とし、こっちを見ない。
月曜日の昼時、彼女と会うのは二ヶ月ぶりだ。私達のお気に入りの喫茶店、私達のお気に入りの大きな窓際に並んだ一人ずつの席。窓に向かって座る形になる。席がゆったりとしているので、好きな体勢で寛ぐことができる。彼女はいつも足を組み、私より小さな体を思いっきり背もたれに預けているのだが、今日の彼女は、カップを荒れた両手で包み込み背中を丸め、両足も揃えてこぢんまりと纏まっている。
「そりゃあ、顔には目も鼻も口も、眉だって付いてるよ。付いてない方が問題でしょ?」
私はいつも通りゆったりと座り、正面を向いたまま珈琲をすすった。二階からの景色はいつもと変わらず、高架の私鉄線路や幾つもの駅ビル、行き交う人々が見える。いつもと違うのは友人だ。まぁ、学生時代から稀にあった症状だが、社会人になってからは初めてかも知れない。一年過ぎたぐらいだが。
「… うん、顔には付いてる。顔には付いてるんだよ。付いてなきゃ、納得出来るんだけどさ… 付いてるんだよなぁ…」
ブツブツ言いながらカップをテーブルに置くと、いつもの体勢になった。
「顔の話じゃないの? 仕事がらみでしょ?」
ここでようやく、彼女は私の方を向いた。彼女の仕事は理容師、床屋さんだ。国家試験もパスして、今は住み込みで働いている。
「あ・た・ま」
彼女は自分の後頭部を指でツンツンと指した。
「頭? … 顔じゃなく?」
私も自分の後頭部をツンツンしてみせた。
「そうそう。初めは疲れてるのかと思ったんだよね」
窓の方に向き直り、珈琲を飲みながら、彼女は話を続けた。
「髪のうっす~いお客さんでね、シャンプーの後、マッサージしてたの。しながらさ、鏡越しにお客さんと会話してて、手元に視線を落としたらさ… 薄っすらと目があったんだよね。髪薄いから、頭皮が見えるじゃん。頭皮にさ、目があったんだよね、薄っすらとだけど」
「… 疲れてるんだよ」
そうであって欲しい。
「でね、そのお客さん、二週間に一回は来てくれるんだけど、その薄っすらと目を見つけた次に来店してくれた時には、少し濃くなってたんだよね。目」
想像したら、怖い。
「さらにその次の時には、もうハッキリと。しかも、鼻と口が薄っすらと。鏡に写ってるのと同じ顔が、もう一つあるの。四つの目で、こっちを見てるんだよね。顔の目が瞑っていても、後頭部の目はしっかりと開いてて、こっちの動きに合わせて動くんだよね」
そんなの、嫌だ。
「でさ…」
まだ、続きがあるのか…。こっちも鬱々としてくる。
彼女はこっちを見て、人差し指で口の端を上げた。
「最近、そのお客さん以外にも見える様になったんだよね。しかも、最初はシャンプー後だったのに、最近は気がつくと出てるし、髪が薄いお客さんは見えるから慣れたけど、髪が多いお客さんなんか、髪分けた瞬間に見えるんだよ。隙間から見てるの。あれ、心臓に悪い」
彼女はそう言うと、自分の茶色いショートカットの髪を分けて見せた。確かに、髪の隙間から目が見つめていたら、心臓に悪い。しかも、後頭部だ。
「でね、先週は、話したんだよ」
「話…」
「そう。常連のおじいちゃん。息子の嫁の飯が不味いんだぁ~… って。その時、そのお客さんね、うちの息子の嫁の飯は天下一品なんだ~。って、言ってたんだよね。言いながら、後頭部の口は「不味いんだぁ~」だって。後頭部の顔は、本心が出るのかね?」
私に話をしながら、彼女は毒抜きをしているんだろう。いつもの顔つきに戻っている。
「でも、頭をマッサージしてる時は、その顔はどうなってるの?」
「あるよ」
さっき迄の鬱々とした雰囲気は何処に行ったのやら。いともあっさりと答えて、彼女は残りの珈琲を飲み干した。
「… あるの?」
「ある。初めは抵抗あったよ、もちろん。でもさ、そこを避けてマッサージするっていうのは… 無理じゃん。イボみたいに小さかったら出来るけど、避けれるサイズじゃないからさ」
「でも、目は動くし、口は話をするんだよね?」
「うん。だから、抵抗あったってば。でも、あくまでも「頭皮」なんだよね。凸凹してないの。触った感触も「頭皮」なの。で、マッサージするとさ、頭皮が動くわけで…」
毒は抜けきった様で、彼女はニマニマしながら自分の頭を揉んでみせた。
「百面相?」
「そう!顔がグニグニ。見てるこっちは痛そうなんだけど、そうでもないらしくてさ、たまに「気持ちいいなぁ~」って、呟いてるの。後頭部の顔でもさ、「気持ちいい」って言われると、嬉しかったりするんだよね」
こんな不思議で気味が悪い事を受け入れてしまうのは、彼女の凄いところだと思う。
「で、なんで鬱々としてたの?」
「うん… なんかさ、見られるのが怖くなったんだよね」
「そりゃあ、後頭部に顔がある事自体怖いでしょう」
「普通はね。こないだ、シャンプーしようとしたら… 床屋って、最初は座ったままの状態でシャンプー液つけて泡立てて洗うんだけど、ちょうどシャンプー垂らす時に出てきたんだよ、顔が。で、試しに右目に向かってシャンプー液噴射してみたんだよね」
それは、気になる。
「そしたらさ、「ぎゃっ!」って言って、消えちゃった。流石に指で目潰しかましてみるほどの勇気はない」
笑っているけど、そのうちやるだろうな。
「で、怖いって?」
「ああ、それそれ。後頭部の顔は、多分本心を言ってるんだよね。こっちをジッと見ながらさ。で、本当の顔もこっちをみてるわけじゃん… うん、上手く言えないなぁ」
彼女は後頭部を掻きながら、言葉を選んでいる。
「ともかくさ、視線が怖いんだよね。見られるのがさ」
「視線が怖いのは、元々じゃん」
元来、彼女は目立つのを嫌っていた。高校時代も、生徒会に在籍していたけれど、ずっと裏方専門だった。挨拶や話は、きちんと相手の目を見ているけれど、精神的に疲れてくると人を避ける。慣れた友人たちは、そんな状態の彼女を放おっておく。数時間、長いと数日かかるけれど、放おっておけば元に戻る。
「そうなんだけど、いつもより… うん、そうだ、学生の頃は、皆放おっておいてくれたんだよね。でもさ、今はそれが出来ないから… うん、疲れかなぁ… 疲れか」
自分なりに納得したのか、来た時とは正反対の足取りで、二杯目の珈琲とデザートを買いに行った。
■
先週は主人が有給を取ってくれたので、義祖母の介護を変わって貰えた。久しぶりの息抜きだった。友人の愚痴や悩みや、気味の悪い話でも、家から出て友人に会えばそれなりの息抜きになる。それに、私も愚痴や悩みを聞いてもらう時があるからお互い様だ。
義祖母の脳は幼少期に戻ってしまっているらしい。暴れないし、体は動くし小柄だから、こうしてお風呂に入れるのはまだ楽だと思う。
「なっちゃん、気持ちいいねぇ」
私は「なっちゃん」ではない。その名前は、義祖母の一番の親友のものらしい。
「そうだね、お花ちゃん」
年を取ると感覚が鈍くなるとよく言うが、義祖母はそうでもなく、加減して洗わないとすごく痛がる。
「なっちゃん、今日は頭も洗って。お砂遊びしていたら、ケンタ君に意地悪されて、お砂を頭からかけられたの」
「あらあら、それは大変。じゃぁ、綺麗にしようね」
今日は雨だ。一日降っていたから、散歩にも行けなかった。
「お湯かけるから、目を瞑っててね」
「はぁい」
幼子のように返事をして、両手で顔を隠し、小さな背中を丸めた。
「… 砂、流さなきゃね」
シャワーを構えた瞬間、彼女の話を思い出した。
『目があうんだよ』
きっと、彼女は心の疲れが溜まっていたんだ。学生時代のように、上手く発散できなかったから、そんなモノを見たり聞いたりしたんだ。
でも…
「お湯、かけるよ…」
この白髪の間から覗いている目は、なんだろう… どんよりとした、黄ばんだ目が、私を見ている。
『でも、同業の友達も言ってたんだよ。ってか、友達から聞いた一週間後ぐらいに、初めて見たから、「これか!」とも思った』
… この話は、感染するのだろうか?それより、口は有るのだろうか?
「なっちゃん?」
「あ、ごめんね、今…」
そっと髪をかき分けていくと… あった。口だ。ニンマリと歪んだ口があった。
「・・・」
その口が何か言おうと開きかけた瞬間、私は思いっきりシャワーをかけた。
終