相手が話を遠ざけようとするのならば、核心を突く他なかった。
「過去の
これで言い逃れはできない。罪を認めた後に動機を探る。点と点を繋げ、一本の線にしなければいけない。この怪異を本当の意味で終わりにするためにも。
ところが椿の笑顔の仮面は崩れることがなかった。
「それがどうかしましたか」
椿は小さな子どものように小首をかしげた。
「どうかしたって。だって、殺したんですよね。日記にあんなに克明に書いてい──」
「そうですね。死にました。たくさんたくさん。先生のところにも生まれたばかりの子がいるからわかるかと思いますが、赤ちゃんはね、柔らかいんですよとっても。全身がぷにぷにして、頭も柔らかいんです。だから、ぐぅ、って力を込めると簡単に潰れていくんです」
「な、何の話をしてるんですか!?」
「先生こそ何の話をしているのでしょうか。たくさんの赤ちゃんがあの小屋で死んでしまったことが、この泣き声と何か関係があるのですか」
色の無い瞳が吉良をじっと見つめる。答えを待っているようだった。
まさか、そんな。
手が震えていた。吉良がそのことに気づいたときには震えは全身に生じていた。
「……自覚がないのですか? ご自身が何をされたのか」
「自覚──ああ、そういうことですか。ですが、赤ちゃんが死んでいったのは仕方のないことです。私はできうる限りのお世話をしていたんですよ。毎日毎日、この声を聞きながら。でも、買い手はいなくて売り手が増えるばかり。先生。どうしますか。売れない子たちはどうしますか」
小さな口が大きく広がり、上品な笑顔が歪んだ。
噛み合わさった歯と歯の隙間から、録音した音声を逆再生したような、言葉になっていない耳障りな声が次々と発せられる。くぐもっていた声は鋭く激しくなり、熱を帯びていく。耳を澄ましてよく聞くと、同じ言葉の羅列が耳の奥へと飛び込んできた。
「──れ──まれ──だまれだまれだまれだまれだまれだまれ──」
耳を塞ぐ手に力が込められ、青白い顔が赤黒くなっていく。破れるのではないかと思うほど額に血管が浮き出てくる。歯を食いしばり顔を震わせると、大音量が弾けた。
「黙れ!!!! なんとかしてくださいよ先生! うるさいんです! いつもそうだこの話をするとき、考えるとき、いっつもいっつも騒ぐんだ! いい加減に! 黙れ!!」
ガクッと首が
「ですが、先生は助けてくれる。そうですよね。私を助けに来てくださったんですもの。この声を消してください。今度こそ、確実に」
吉良はじっと正面を見ていた。息がかかるほどの近くにある深く皺が刻まれた顔を見ていた。一体どこを見ているのか。もはや椿の瞳は焦点が合っていない。
「どうしたのですか、先生。教えて下さい。方法を。知っていらっしゃるんでしょう。さては、怒っているのですか。私が赤ちゃんを死なせたことを。でもね、私のせいではないのです。悪いのは産んだ母親です。
生きるために手段は関係ない。それは一つの真実だろうと、吉良は頷いた。あやかしになってまで生まれてこようとする力を目の当たりにしたのだから否定はできない。
「──ですから同じことなんです。あなたが殺した大勢の赤ちゃんも生きようとしていた。必死に。その思いと力があなたに声となって聞こえているのではないのですか? あやかしとして生まれてきたのではないのですか?」
なぜ自分だけ助かろうとしたのか、誰かに救いを求めなかったのか。責任を追及しようとする言葉はつらつらと頭の中に浮かぶ。相手の非が明確な糾弾は簡単だ。
吉良は握った手にさらに力を込めた。爪が食い込み、鋭い痛みを与える。そうまでしてようやく感情に任せてぶつけそうになった言葉を呑み込んだ。
予想に反した台詞が返ってきたからなのか、それとも本人にしか聞こえていない声が激しくなったのかはわからないが、老婆の笑みはだんだんと引き
「……でも、死んだら終わりでしょ? それなのにいつまでも纏わりついてくるんですよ。声を消してほしいと思うのは当たり前のことですよね。生まれてすぐに死んだくせに
「……無理です」
乾いた唇を舐めて開けた口から自然に漏れ出ていた言葉に吉良自身も驚いていた。内に溜め込んだ黒色の感情を握り締めていた手はあっさりと解放される。
「えっ………………?」
二の句を継げずに口を開閉させることしかできない疲れ切った表情を眺めながら、吉良はおもむろに椅子から立ち上がった。
「無理だと言いました。私にはあなたの怪異を解決する術はない。あなたにしか聞こえない声が、あやかしではなく幽霊だと言うのなら、お役に立てません。私の専門外ですから」
「……へっ? ……へっ?」
それ以降は言葉にならなかった。吉良はすかさずベッドに置かれたナースコールを押すと、踵を返してドアへと向かう。駆け付けてきた足音が止まり、ドアの鍵が開いた瞬間に病室の外へと出ていった。
「どうしましたか──ちょっと何を!!」「椿さん! やめて! やめなさい!」
窓辺に置かれた花瓶が砕け散る。一輪の椿の花がポトリと床へと落ちた。
吉良は決して振り向かなかった。赤子の声などまるで聞こえない。聞こえるのはただ、狂ったような老婆の絶叫だけだった。
*
行って帰ってくる。
帰りの電車が椿の住む町を抜けたところで、吉良は帰っている旨を簡易なメッセージにしたためて送った。
傍らに置かれたお土産の紙袋の中からは甘い香りが漂ってくる。吉良は、その紙袋に手を入れると中から一冊の本を取り出した。お菓子の箱の上にちょうど空きスペースがあったのだ。
書名は「あやかしと幽霊の変遷」。分厚い専門書であやかしと幽霊の成り立ち、そしてその違いが詳細に検討されていた。
お土産を買う際に途中立ち寄った本屋の中で見つけたものだ。
目次を辿り、ページを捲って眼鏡を上げる。あやかしの成り立ちはすでに明かされている。人の想い、願いがあやかしを生み出し形を作り上げる。だからいつの世もあやかしの存在は不安定で中には明確な形になれないまま消滅する運命を辿る者も多い。
対して幽霊の存立条件は明確にされていない。あやかしと幽霊の境界線は曖昧なところもある。出産時に亡くなった女性の想いが形となった産女と呼ばれるあやかしは、幽霊と紹介されることもある。
あやかしと幽霊がただ違うのは、幽霊はあくまでも先に実体があったことだ。人でも動物でも先にはっきりとした存在があり、死後幽霊となるとされている。あやかしは化けるが、幽霊は化けない。幽霊は生前の執着を死後なおも引き摺りその解消を求める。
ならば椿杏──あの老婆に憑いているものは何なのか、老婆にしか聞こえないという赤子の声は何なのか。あやかしとしての形は消滅した以上、それがきっと幽霊と言うものなのだろう、と吉良は結論づけた。
結局、長年掛けた儀式は失敗し行き場のなくなった執念が老婆に取り憑いているのだ。あるいはそれが、恨みなのかもしれない。
吉良は本を閉じると顔を上げた。いつの間にか向かいの座席に赤子を抱いている母親の姿があった。隣に座る父親と覗き込むようにして眺めている赤子はすやすやと寝息を立てて眠っていた。
少し微笑むと、吉良は再び本を仕舞った。幽霊のことはわからない。だから後はもう年老いた椿杏が自分でなんとかするしかない。
「……少し、疲れたな」
ぼそりと独り言を言うと、吉良はお土産を胸に抱いて目を瞑った。瞬く間に意識は暗い闇の底に落ちていく。
電車は速度を上げていった。家族の元へと、生まれたばかりの我が子の元へとはやる吉良の心を表しているかのように。