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第42話 一輪の椿の花

 目的地へ到着したときには、もうすでに夜の帳が下りていた。


 人足はほとんどなく寒空の中を冷たい風が吹きつける。吉良は首をすぼめるとコートのポケットに手を突っ込んで椿が入院しているという病院へ足早に向かった。


 病院は月岡を通じて事前に教えてもらっていた。あやかしによる症状が収まったあとは別の病棟へ移動させられたらしい。詳細は聞けなかったが、原因はある程度想像がつく。


 先方にはあらかじめ連絡を入れており、向こうも訪問を歓迎していると聞いていた。意思の疎通は少なくとも取れるということだ。話が噛み合うのかどうなのか、真実を話してくれるのかどうかはわからないが。


 受付で用件を伝えると、戸惑いの表情を浮かべた若手の看護師にかわり落ち着き払ったいかにもベテランといった佇まいの看護師が病室まで先導してくれた。おしゃべりな人らしく聞いてもいないのにあれこれと患者の様子を話してくれる。


「ずっとね、耳を手で塞いでいて。ご飯も食べようとしないんですよ。仕方なく看護師が口にご飯を運んで」「──あやかしの仕業だと言われれば逆に納得しますよ。病棟にいる他の患者さんとは全然違う。どこか異質なんですよね」「……常にブツブツ何か言っています。ときどきヒヒッっていう感じで変な笑い声を上げてね」「私達では手に負えないというか。病気……とも違うんですよね」「……一度無理に手を離そうとしたことがあったんです。機能的には何も問題ないわけですからね。そしたら、壁に耳を激しく打ちつけ始めて」「──目がね、ゾッとするんです。こちらを見ているようで見ていないというか、空洞なんです。目はもちろんあるんですけどね」「常に交代で看護師がつきっきりです。放っておけばご自分の耳に何をするかわからないですから」


 「ここです」と、厳重に閉ざされた扉の鍵を開けると看護師が先に中へと入った。一言二言、言葉を交わすと、再び扉の外に出てきて中へ案内する。吉良は大きく息を吸うと病室の中へと侵入した。


「いらっしゃい」


 看護師の話しぶりから変わり果てた姿を想像していたが、椿杏はこの前面接で会ったときと何ら変わらない様子でベッドの上で横になっていた。


「あら。これでは話しづらいですよね」


 耳から手を離さないように肘先でボタンを押してベッドの背もたれを動かすと、吉良の視線上に柔和な微笑みが移動した。


「ようこそ。遠くまでよくいらしてくださって。ありがとうございます。耳ですか? 大丈夫です。耳を塞いでいても話し声は聞こえるんですよ。どうぞ、お掛けになって」


 看護師の言う通りだった。口調や表情は上品なほどに丁寧で、物腰も柔らかいのに窪んだ瞳だけが色がなかった。そこだけぽっかりと穴が開いたみたいに。


「どうぞ、お掛けになって」


 生気のない薄い唇が動き、もう一度促した。ベッド脇に一つ丸椅子があるのを見つけ、座る。口を開こうとしたとき、部屋に留まっていた看護師がそそくさと部屋の外へと出ていってしまった。


「それじゃあ、後はお任せしますから。何かあれば呼んでください」


 一秒でも早く逃れたいという気持ちが早足にありありと現れていた。部屋の空気がそうさせるのだろう。病室だということは差し引いても、綺麗に整理整頓された棚やベッドに窓辺に置かれた一輪の椿の花。一見すると高貴な香りが漂ってきそうなこざっぱりとした綺麗な空間。


 が、その実、香りの奥にあるものは禍々しい腐臭だ。たくさんの花が地面に捨て置かれたような。


 扉が乱暴に音を立てて閉められ、鍵が掛けられた。


「あら。閉じ込められてしまいましたね。吉良先生。私、看護師さん達に嫌われているみたいなんです。気持ちはわかります。気味が悪いですものね。私も心苦しいのですが」


 随分と饒舌だ、と吉良は思った。いつもは思い出すように訥々と喋っていたのに。


「あやかしが関わると、看護師さん達も対処のしようがわからないですから困ってしまうのだと思います」


「そうですよね。だから、先生が来てくださったんでしょう。やっぱり先生は優しい方です。私を助けに来てくださった。あやかしの話は聞いています。餓鬼、と呼ばれるあやかしが私に取り憑いたのだとか。でも、先生が退治したとも伺っていたのですが。おかしなことにまだ治らないのです。声が、耳に響くんです」


 吉良は知らずに下へずり落ちてきた眼鏡を上げた。椿は左右の耳を両手で塞いだままにこやかに笑っていた。ただ、笑顔は顔の上に一枚紙を貼り付けたように薄っぺらい。


「……声が。まだ聞こえるんですか?」


 きゅっと椿の口角が上がった。


「そうです。まだね。聞こえるんですよ。あやかしがまだ私の中に取り憑いているのでしょうか。せっかく良くなってきたと思いましたのに。でも、先生が来られたからもう心配することはないのですよね」


 「それはまだどうなるか……」と答えてハッと気がついた。言葉数が少ない、いつもは話の輪郭がわからないようにされ、今は喋り続けることで煙に巻こうとしている。問題の核心から少しずつ少しずつ遠ざけようと。


 吉良は膝に置いた手をぐっと握り締めた。椿はあえて自分を選んだのだ。日記に書かれていた「優しい方」というのは間違っても褒め言葉ではない。


「その声の原因。最初からご存知だったはずです」

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