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第37話 残ったモノ

 眼前に現れた沙夜子の髪は元の色を取り戻していた。跳び上がる脚も、掲げた腕も肉付きが戻っている。


 赤子の心を持ったあやかしが吉良に触れた僅かな時間、動きを止めたからだろう。


「悪いけど、これで終わりよ」


 沙夜子は振り上げた腕をあやかしの掌に埋めた。真白な光が掌から輝き出し、繋がっていた吉良の手から離れていく。何も知らない笑い声はすぐに泣き声に変わり、激しく空気を揺らし始める。


 陣が発動した。連なる景色とあやかしの間にさかいを見つけ、世界とあやかしを峻別する。元々形の無いあやかしは存在自体が不安定だ。


 人々の記憶から消えてしまえば存立できないほどに脆弱。存在が確立したばかりのあやかしならば、容易に消えてしまう。


 世界の連関からあやかしのみを切り取る結界陣は、その存在を否定するわざだ。切り取られたと同時にあやかしは景色の中に封印され、力の弱いあやかしならば存在そのものが消されてしまう。


 吉良も沙夜子もそのことはわかっていた。だからこそ沙夜子は吉良に問うた。


「陣を展開する。いいわね」


「そんなこと、言われなくてもわかっています。どうするかは最初から決まっています」


 本当は助けに行きたかった。助けを求める声に応えたかった。吉良は動き出そうとする自分の体をきつく抱き締めると、その場に留まろうとした。床に足が張り付いて動けない状態をイメージしながら。


 泣き声が一層強くなる。沙夜子がさらに右手に力を込めたのだ。光はますます強くなり、何色にも染まっていない純粋無垢な大きな瞳が見開かれる。瞳は吉良へと一心に注がれ、もう片方の手が沙夜子の頭を飛び越えて力無く伸びてゆく。


「……ああ……」


 勝手に手が伸びる。張り付いていたはずの足が一歩前へ進む。応えないわけにはいかないだろう。この命に罪はないのだ。


 生まれたかった。ただ生まれたかった命に、罪などないのだ。


「ダメだ」


 吉良の動きを止めたのは月岡だった。煙の匂いが体に纏わりつく。


「離してください……お願いだから、離してください……お願いします」


 懸命に伸ばされた手を掴んでやりたかった。最後かもしれない、意味なんてないのかもしれない。だけど、何かが変わるのかもしれない。


 それでも。腕は消えていく。空気に溶け込むように。空間に散らばっていくように。


 沙夜子は、舞を終えたように腕を下ろした。後には最初から何も無かったかのように深い闇が続いていた。


 微かに聞こえていた泣き声も、徐々に徐々に消えていく。


 ──癇癪を起こしたような泣き声が弾けたのは、そう思った矢先だった。


「まだ声が聞こえるじゃねぇか! どうなってんだ、吉良!」


「わ、わからないですよ。今、確かに沙夜子さんが陣を使ったはずじゃ……」


 焦る二人をよそに沙夜子は声の方へ向かって走っていく。闇深いその先へ。慌てて追いかけた吉良が、足を止めた沙夜子の肩口に覗き込むと、赤子が一人いた。


「あやかしですか?」


 暗くてよく見えないが、血と汚れに塗れた小さな体が床上で手足を動かしながら泣いていた。上手く泳げずにもがいているようにも見える。あやかしでないのは明白だった。あやかしならば不必要な臍の緒がまだ残っていたからだ。


「人間の赤ちゃんよ。吉良、お願い。私、赤ちゃん触ったことないから」


「あっ、はい……」


 吉良はしゃがみ込むと、体の様子を確認しながら慎重に腕を回して赤子を抱きかかえた。


 張り裂けんばかりの泣き声が収まり、何かを欲しているように唇が動く。欲しいものが与えられないからかまだ薄い瞼が上がり、目が僅かに開いた。


 じんわりと柔らかな熱が腕に伝わってくる。赤子の体はしっかりと温かかった。四肢の欠損はなく、大きな傷のようなものもとりあえずは見当たらなかった。血と汚れは別の何かからつけられたものだ。


「わからないことだらけだ……。さっきのあやかしが人に化けたのか?」


「バカね。そんなわけないでしょ」


 月岡の素朴な疑問に沙夜子の鋭い突っ込みが入る。月岡は舌打ちをするとタバコを取り出し口に咥えた。だが、ライターがないことに気がついたのかまたタバコを戻すと、もう一度舌打ちをする。


「あやかしは化けるだろ」


「確かに化けるモノも多いけどね。この子は違う。ここで産み落とされた人間の赤ちゃんよ」


「産み落とされた? ってことは、おい……まさか」


「そう、あんたが思っている通りの、そのまさかね」


 赤子を抱えたまま、吉良も立ち上がり後ろを向いた。赤子は自分の指を口の中に入れて、吸い始めていた。目は開いたままだが元気がなく、今にも閉じてしまいそうだった。


「──話は後にしてまずは病院へ連れていきましょう。ここで何があったかわかりませんが、急がないとこの子も危ない」


 三人と吉良に抱えられた赤子はすぐに呪われた部屋を出た。部屋を出る直前、誰かに背中を引っ張られるような感触を感じて吉良は一度振り返ったが、何もいないことを再確認して部屋を後にした。

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