「月岡さん! なんてことを!」
「うるせぇ! 今はこれしか手がないだろ」
ライターの火に誘われるように生まれたばかりの赤子の顔が現れる。一体だけではない。続々と火を取り囲むように五、十、二十……とその顔は増えていった。
耳から手を離すと吉良は腕を振り下ろし、月岡の方へ踵を返した。
光を求めているようだった。決して宿ることのなかった光を掴もうと照らされることのなかった光を浴びようと、赤子の意志を持つあやかしが集まり、動き出している。
月岡の後ろで座り込んでいた沙夜子は壁によりかかりながらも起き上がろうとしていた。一時的に泣き声が消えたことは、沙夜子を助ける力になったのかもしれない。
だが、その代わりに月岡に密集している。泣き声だけだったあやかしがついに形を現す。
出現した顔、顔、顔が各々の表情をつくり始めた。泣き顔、笑い顔、怒り顔──表情は多様なれど共通しているのは今まさに口が開こうとしていること。
人間の思いが実体化したあやかしが産声を上げようとしている。
月岡に向けて手を伸ばしながら吉良が思い出していたのは、優希の誕生の瞬間だった。
あのとき。優希は産声を上げられなかった。青白い臍の緒が首に巻き付いていたからだ。苦しそうな臍の緒が取られたその瞬間に、ようやく優希は最初の第一声を上げた。──新しい声が色が世界に、生まれた。
銃声が赤子の顔を撃ち抜いた。血は流れはしないが、額には黒い穴が開き風船が萎むように小さな顔は消えていった。ニ射、三射と撃つたびに新しい命が消えていく。硝煙が漂う月岡の顔には汗が吹き出し、唇は震えていた。
「死ね」
四射目が命中したところだ。あやかしの姿はすっと消えた。タバコよりもずっと嫌な硝煙の臭いが部屋中に充満していた。
「……消えた、のか?」
誰も月岡の投げかけた質問に答えることができなかった。
吉良は手を伸ばした姿勢のそのまま胸を上下させて呼吸をしていた。
弾丸が命中したとき、確かに赤子の顔は消えた。
実体化して現実の存在になったことで弾が当たるようになった? でもまだ四発。顔はもっとたくさんいた。それに生まれたばかりと言っても、たかが拳銃であやかしが倒せるなんて……。
月岡が手に持っていたライターを投げ捨てた。虚しい音が床を転がる。
「どうなんだよ!? 終わったのか? 終わってないのか? ハッキリしてくれ!」
吉良は月岡の顔を見た。恐怖で顔が引き攣っているのがよくわかる。
「なあ……頼むよ……どうなってんだよ! ……撃ったとき、アイツらは睨んだんた。……俺のことをハッキリとだ。あやかしだったんだろ? そうだろ? そして終わったんだ。そうだろ?」
「月岡さん……」
拳銃を持つ手が大きく震えていた。訓練を積んだとは思えないほどに。その恐怖が限界に到達しようとしていた。
「お、落ち着いてください」
今言えるのはこの言葉だけだ。そしてその言葉は吉良自身にも当てはまる。
沙夜子は動けないままで月岡は緊張状態が頂点に達している。今立ち向かえるのは、何かができるのはもう自分しかいない。
どうする? 何を、どうすれば──。
無常にも刻々と時間は過ぎ去っていくだけだった。十秒、いや一分、場合によっては五分。正確な時間はわからないが、焦りと動揺の時間だけが時を刻んでいった。
全くの暗闇の中では、人は方向感覚も時間の感覚も狂ってしまう。
暗闇は人間の住む世界ではないからだ。人は古来から何も見えなくなる暗闇を恐れていた。だからこそ闇の中に何かを見つけようとし、闇の中から現れる何かを形作ってきた。
暗闇は今でも人間の領域では無い。暗闇は、あやかしの領域だ。
両の耳を
迫るように、急くように、存在を認めろと言わんばかりの、刃のように尖った泣き声が鼓膜を突き破ろうと大音量を上げた。
耳を塞ぐ。塞がずにはいられない。というよりもそうしなければたぶん理性を保っていられない、と吉良は咄嗟に判断した。
声が直接耳の中に飛び込んでくればまた気絶してしまうかもしれないと。
月岡の手から拳銃が落ちた。その上に月岡自身が倒れ落ちていく。起き上がる様子は微塵も感じられなかった。
すぐに動けばよかったのかもしれない。そう思った。動いても間に合わなかったかもしれない。そうも思った。
病院、鬼救寺、自宅──これまでの幾つもの選択の場面場面が頭の中を駆け巡る。
──間違えていたんだ、最初から。僕がいなければ、ここに立っているのが僕でなければ、誰も苦しまずにとっくに解決していたかもしれない。
あるいは僕に二人のような力があれば。
誰も何もいなかったはずの空間にそれは現れる。初めからそこに居たかのように。無かったことなど想像できないほど明瞭に。
不協和音を奏でていた声は大きなうねりを経て一つに重なり凝縮し、ほんの小さな円を創り上げた。一呼吸すらままならないほどの時間の隙間を無音が埋め、重低音の鼓動が空気を振動させる。
生命が、始動した。
手を離すと自分の荒い呼吸が聞こえてくる。そして同時に自分のものとも区別ができないほど巨大な鼓動がただただ鳴り響いていた。
吉良はただ見ていた。またもや見ていることしかできなかった。