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第34話 誕生

 沙夜子がいた。


 光の届かない部屋の隅に縮こまるようにして白い服がもぞもぞと動いていた。


「沙夜子さん……」


 様子がおかしいのは明らかだった。


 吉良は歩幅を緩めて恐る恐る近付いていく。沙夜子は床に直に座り込んでいた。


 裾から伸びた足は床の上に投げ出されており、俯き加減の頭を両手で抱えている。服が動いているように見えたのは震えているからだった。


「柳田……お前……」


 月岡がその先を言葉にしなくても何が言いたいのかはわかる。いや、誰だってこの姿を見れば同じことを考えるだろう、と吉良は思った。


 取り憑かれていた。伸びた足も頭を抱える腕も脂肪という脂肪が搾り取られ、枯枝と化していた。


 体の震えは恐怖によるものではなく、おそらくは筋肉の急激な衰えによるもの。纏っていた衣服もブカブカで非常に痩せた子どもが大人の服を着ているようにも見える。


「見、な、い……で……」


 ヒューヒューと苦しそうな息の合間に掠れるようなか細い声が沙夜子の口から発せられた。


 この状態でも言葉を紡ぎ意志を保ち続けられているのは、あやかしに対抗する術を持っている沙夜子だからこそだろう。


 吉良は一度助けようとしゃがみ込んだが、頑なに顔を見せない様子を見て腰を上げた。


「どうする? 応援を呼ぶにもここは遠すぎる。一旦担いで車まで戻るか」


 あくまでも月岡は冷静だった。少なくとも冷静でいるように努めているように見えた。混乱するでも諦めるでもなくこの場において最適な対応に徹しようとしている。


 吉良は部屋の中を見回した。他のどこの部屋とも同じように崩れた瓦礫が散乱していた。ただ、他の部屋とは違って厳重な扉が残っていたためか元の形のまま残っているものがある。


 分娩台だ。その横には桶のようなものが置かれていて、中を確認すると暗闇を映す水が張っていた。


 嬉々として悦ぶ老婆の顔が吉良の頭を過ぎる。分娩台を見つけ、どこからか持ってきた桶をいそいそと運ぶ姿が。


 自分が助かるそのためだけに、取り憑いたという水子霊一人ひとりを落としてきたのだ。決して光が差すことのないこの暗闇の中へと。


 それが新たなあやかしを生み出し、増殖させていることも知らずに。──いったい何人が取り憑かれたのか。どれだけの犠牲が生まれたのか。幾つの命を無駄にしたのか。


 何も感じずに。何も思わずに。二年間もずっと通い続けてきたというのか。この悍ましい場所に平気な顔をしてずっと。


 吉良の両掌が強く、固く握り締められた。


「一度戻るしかない。行くぞ、吉良」


 月岡の言葉に我に返ると、吉良は沙夜子の元へと駆け寄っていった。月岡の言うとおり、肝心の沙夜子がこの状態では今は戻るしかない。鬼救寺へ戻って態勢を整えた方が賢明だ。


「悪いが、背負わせてもらうぞ」


 慣れた手つきで沙夜子の腕を持ち上げると、月岡は自身の背中へと痩せ細った体を回す。


 直後に絞り出すような沙夜子の声が木霊した。


「ダ、メ……早く……逃げ、て……」


「わかってます。だからみんなで」


「……違う」 


 沙夜子は懸命に首を振った。乱れた髪の隙間から覗く窪んだ瞳が吉良の方を見た。


「沙夜子さん?」


 焦点が合っていなかった。あんなに堂々としていた力強い色はなく、弱々しく怯えた瞳は今、吉良に届かず宙を見ている。


「四の五の話している暇はねぇ! 行くぞ!」


 沙夜子の体が軽々しく持ち上げられ月岡の背中に乗った。まるで赤子が背負われているように、吉良には見えた。


「何してる! 先に行け!」


「あ、はい! すみませ──」


 トクン、と心臓が大きく動いた気がした。反射的に耳を塞ぐ。塞いだはずなのに沙夜子の声が間近に聞こえる。


「……形が、生まれた。新しい命が動き出す」


 苦々しい後悔の気持ちが頭をもたげる。なぜ、すぐに気がつかなかったのか。


 うるさいほどに聞こえていた泣き声が分娩室に入った途端に消えていた。いなくなったはずはない。時を待っていたのだろう。自分達が動き出せる瞬間を。


 両耳を塞いだ手を突き破るかのように何重にも重なる赤子の声が弾けた。泣き叫ぶ声は地響きのように足元すら揺らす。


 薄っすらと目を開ければ揺れているのは自分ではないことがわかった。床も壁も天井も、部屋全体が揺れている。


 月岡は片方の手で耳を抑えていたが、鳴り響く声に耐え切れないのか、苦しそうに顔を歪め沙夜子を床に降ろすと両手で耳を覆った。


 沙夜子はもう腕も上がらないのか、壁に背をつけてひたすらに我慢しているような有様だった。


 赤ちゃんが泣き喚いているなんていう声じゃない。もっと激しくもっと深刻な声の渦。生への願望が、生への意志が声となって叫んでいた。


「ううぅ……うわあぁぁあ……」


「!!」


 沙夜子の口から苦悶の声が出された。髪の毛の色が抜け落ち、白く変色していく。なんとかしなければ、と焦るも上手く身動きが取れずに唇を噛むしかなかった。


 どうすればいい、何をすればいい。なんでもいいから、何かできること!


 絶望的なまでに黒く塗りつぶされた暗闇の中に丸い光が点った。急に、強いタバコの臭いがした。一斉に泣き声が止む。


「やっぱりこれがないと、落ち着かねぇな」

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