「なに、やってんのよ、吉良!」
飛び込んできた声はやけに冷静だった。あやかしを対処できる術を持っているゆえかもしれないが、きっと元々の性格もあるのだろう。
恐る恐る開けた視界の端に、清浄を示すような白い袖口がはためいた。
陣が展開される。もはや牙のようにも見える歯を剥き出しにしていた餓鬼憑きの動きが急に止まった。
掴んでいた手の力が抜けたことですかさず吉良は腕を引き抜き後ろへと下がる。皮膚が破れ流れ落ちる血をもう片方の手でぐっと抑えると、顔を振り上げる。
餓鬼憑きは苦しそうに声を上げたのも束の間、すぐに力を失い後ろ向きに倒れていった。
月岡はその体を抱き止めると、数秒間白坂の顔を凝視し続けた。裂かれたように耳元まで大きく開いた口は元の形の良い口へと変わっていき、燃えるような瞳は眠りに落ちるように閉じていった。頬が赤みと膨らみを取り戻し、豊かな黒羽色の髪の毛が月岡の腕にかかる。
手のひらを突き出すように真っ直ぐに伸びていた沙夜子の細腕がゆっくりと床に向かって下がった。
「もういいわ」
止まっていた時間が動き出したかのように、月岡は白坂をベッドへと横たわらせる。まだあどけなさの残る顔立ちをまじまじと見つめると、乱れた前髪を直した。
吉良は大きく息を吐き出した。
「油断は禁物よ。いつも言ってたじゃない」
「油断していたわけじゃありません」
「でも、不用意に近付いた。逃げるにしろ立ち向かうにしろ、必ず対処法は考えておかないと。その結果が手の傷でしょ?」
言われてもう一度手首を見る。血は収まりかけているが、強く握りしめられた部分が内出血して青くなっていた。
「で、なんでお前がここにいるんだよ?」
「勘よ。あんたのとこの若い刑事があちこち動き回ってるみたいで鬼救寺まで来たから、何か進展があったんだろうなって。後は、吉良が行きそうなところを考えてここに──って感じ」
「GPS要らずだな。末恐ろしい勘だ」
白坂に布団をかけると月岡はベッドに吊るされたナースコールを押した。
「体の負担が心配だ。医者に来てもらった方がいいだろう」
「それはそうね。……でも、どちらにしても時間はないわ。吉良」
射抜くような目が吉良に注がれる。その目で見られると肩に力が入ってしまうのは変わらなかった。
「今回の始まりとなった場所は突き止めたんでしょ?」
「ええ。白坂さんの話とその様子から断定できました。場所は──」
複数の慌ただしい足音が近付いてきて、急に外が騒がしくなった。吉良も沙夜子も口を
*
昼なお暗い鬱蒼と茂る森の中を、目的地に向かってひたすらに黒塗りの車は走っていた。
杉や檜葉などの針葉樹に背の高い草木が進行を邪魔するように繁雑に立ち並んでおり、道と呼べるような道はなかった。
カーナビも意味をなさない深い森の中を月岡は助手席に座る吉良の道案内で進んでいた。
「……で、あやかしは本当にこんな山奥にいるって言うのか?」
急勾配でこそないものの緩やかに坂道は続く。人の侵入は長らくないように思える道のりだった。
「います」
吉良は珍しくそう断言した。
「南柳市には曰くつきの場所が多い。鬼救寺の話もしましたが、今から行くところ、旧南柳市立病院もその一つです」
「市立病院? 立派に記録が残っているんじゃねえのか?」
「はい、残っています。かつて大規模な火災に巻き込まれて廃病院とかした。それだけの情報が。つまり、火災があったことしかわからず、火事の原因もいつそうなったのかも、それまではどんな病院だったのかも定かではありません」
「市が運営していた公的機関だって言うのに記録がないってのか?」
「そういうことです。だからこそ曰くつきとなり、知る人ぞ知るいわゆる心霊スポットになっています」
「随分とおしゃべりじゃない。あんたたちいつから仲良くなったのよ」
沙夜子は窓の外に向けていた目をチラリと月岡に向けた。月岡は、一度バックミラーに視線を送る。
「捜査の一環だ。それ以上の理由はない」
「ふーん。それにしても、あんたと吉良の間にあんまり緊張感が見えないけれど」
肩をすくませると、月岡は助手席に座る吉良の方を一瞥して運転に戻った。両手でハンドルをしっかりと握り締める。
会話がそれきり終わってしまったので吉良は仕方なく口を開いた。
「月岡さんがいたことでここまで辿り着けたのは確かです。僕だけではきっとどこかで挫折してしまっていました」
「まあ、あんただけならね」
「ちょ、沙夜子さん!?」
後ろに顔を向けると、くすっと小さく笑い声を漏らす白装束姿の沙夜子がいた。からかうような素振りとは裏腹に襟元の辺りが血や汚れで変色しており、壮絶な様子が伝わってきた。
「話を聞く限りでは、一筋縄ではいかなかっただろうからあんたの力だけなら無理。でも、協力すればできる。それもたぶんあんたの力なのよ。何があったのかまではわからないけれど、余計なイライラはしなそうでよかった。そうでしょ、月岡」
呼ばれた月岡は鼻を鳴らした。
「ここまで来たんなら、無駄口を叩く気はねぇよ」
「それは私も同感。それじゃあ、今向かっている廃病院だけれど、亡くなる前に彼女──内田紗奈さんが行って帰ってきた、というそれは間違いないのね?」