込み上げてきたものをトイレに吐き出し、すぐに水を流した。これで何度目だろうか、と吉良はトイレの底に溜まった泡立つ水面を眺めながら考えていた。
押し入れの奥から発見された日記は全部で九冊。先に見つかっていた手帳を含めると十冊になる。それぞれ辞書のように分厚く、びっしりと手書きの文字が刻まれていた。筆跡鑑定をするまでもなく、日記は椿杏本人の字と断定された。
さらさらと流れるような字でありながら、一文字一文字はしっかり書かれていて読みやすい。狂気など、どこにも潜んでいないような綺麗な字だ。
手帳は押収されたものの、事件の重大さ──つまりあやかしが関わっていること、すでに何十人もの人間が影響を受けていること──から、事件に当初から関わってきた吉良と月岡にも共有されることになった。月岡は「手に負えなくなったから」だと悪態をついていたが、吉良はもう一つ別の可能性を考えていた。
「
それも一人や二人ではない、数え切れないほど大勢の生まれたばかりの赤子がその手に掛けられて殺されていた。
日記を読むと、「五十を超えたあたり」から数えるのをやめたと記されていた。殺し方も、当初は病死だったものが、赤子の数が増えるにつれて絞殺、殴殺、刺殺と積極的に数を減らしていったことがわかり、並行して日を追うごとに死に対して鈍感になっていくのが読み取れる。
最終的には、手を下すのが面倒くさいという理由と椿の花のように「綺麗に死んでほしい」という理由から、あえて食物を与えずに餓死させる方法を選んだようだ。
大きくしゃくり上げるような泣き声が、だんだんと小さくなっていく様を愉しんでいる描写まであった。
日記の中に赤子の描写が出てくる度に、吉良の想像の中では自身の子ども、優希の顔が浮かぶ。犠牲になった赤子の年齢が優希とピタリと合致しているからだ。執拗なほどに何度も何度も赤子を始末する映像が繰り返され、嘔吐という形で拒絶反応を起こしていた。
想像の中とはいえ、現実でないとはわかり切っているとはいえ、自分の子どもが何度も殺されるのを平気で見続けることはできなかった。
赤子の売買。いわゆる私生児など、産んだものの育てることができない子どもを買い取り、養育し、欲しい人間に売り飛ばす商売。日記を見る限り、見目麗しい子どもほど高値ですぐに売られていったようだが、どんな用途で買われていったのかは書かれてない以上想像は妄想の範囲に入り、また吉良はそれ以上先のことを考えたくなかった。
いずれにしても、当初は需給のバランスが取れていたが、次第に買い手が少なくなり、赤子が増えてきたことでその数を無理矢理減らさざるを得なくなったことが読み取れる。
あたかも売れなくなった家畜を処分するかのごとく、椿杏は人間の子どもを殺していたのだ。
月岡の調べによれば、戦前、そして戦後すぐの混乱期においてそうした商売が成り立っていたこと、そして同様に「貰い子殺人」などとしていくつもの事件が起こっていたこともわかったが、これだけの虐待と殺戮が行われていたにも関わらず、椿杏という人間は裁きの手から逃れていた。
理由は不明だが、日記に書かれている内容や積み重ねた冊数を逆算すれば、売買を行っていた時期は椿もまだ若い年齢──場合によってはまだ未成年──だったということが窺える。
一人で商売を成り立たせていたとは考えられず、椿は赤子を預かる部屋の中で赤子の管理と処分を任せられていたのかもしれない。
商売がいよいよ行き詰まり、事が明るみに出る前に逃亡しそのまま罪が暴かれることなく新しい人生を生きてきた可能性は十分にある。
トイレから出た吉良の顔は、化物でも見たかのように疲労とストレスとでやつれ切っていた。瞳には光がなく、メガネがずれ落ちていることにも気がつかずに、日記を並べた会議室へと戻っていく。
元々細い髪の毛はボサボサで毛先が跳ねていた。力無くドアを開けると、ドアのすぐ側で壁にもたれかかりながら立っていた月岡からも珍しく心配そうな目線が送られる。
「大丈夫か? いや、大丈夫じゃねぇな。少し休めよ」
ポンと肩に置かれた手を、しかし丁寧に振りほどくと吉良は簡素な折りたたみ式の長机の前に立った。
机にはズラッと日記が置かれている。書いた後は押し入れにしまい込んで放置していたのだろう、重厚な黒革の表紙には、真ん中に貼られた御札の縁に沿うように埃やカビがこびり付いていた。
御札は、それぞれ別のところで求めたのか神社や寺院の名前がバラバラだった。
どこかの時点で助けを求めたのだろう。祓うことで、当人が水子霊と考えている怪異をなくそうとしていた。本当に水子霊なのかどうなのか、声だけしか聞こえないならばもう判断ができない。
日記を読む限りでは、嬰児殺しを行っていたどこかでとうに理性と呼ばれるものは超えてしまっている。現実に起こったことなのか、妄想の類なのかは本人にしかわからない。──いや、もしかしたらもう本人にも判別がついていないのかもしれないと思い、吉良は目を閉じた。
とにかく。水子霊が本当なのか幻なのかは関係ない。
肝心なのは、積み重ねてきた思いが、綴られてきたこの言葉が束となり形となり、あやかしを、おそらくは餓鬼を生み出したということだ。
「……まだ、方法がわからないんです。休んでいる暇などありません」
吉良の手は震えていた。日記を開くのを、中に書かれている文章を読むことを、文字を見ることすら体が抵抗していた。
字を見ることすら怖い。見惚れるような綺麗な字なのに、内包している何かに触れそうだった。インクの漆黒の闇の中へと吸い込まれていきそうな感覚が、体の内側から込み上げてくる。
それでもと、吉良は生唾を飲み込んで重い表紙を開いた。あやかしと対峙する力のない自分ができるのはこれだけ。これしかなかった。
餓鬼が生まれた原因は理解ができた。飢餓で亡くなった赤子のイメージが、餓鬼に繋がってもおかしくはない。
自己と他者の区別がまだ曖昧で、自身の形がまだ定まっていない赤子と、最初は不定形だったあやかし。この繋がりも明確だ。
だから問題はあやかしを生み出した方法、「どこかへ行って帰ってきた」──その場所だ。
ページを捲りながら、日記から読み取れる椿の行動をなぞる。水子霊と思しき声が聞こえた後しばらくして、お祓いを受けるために各所を回っている。
当然、御札はもらう、清めもしてもらっただろう、祈祷も御経も全てを試したが上手く行かなかった。そしたらどうするか。
通常のやり方では解決しない場合、どう人は動くのか。一般的に正しいやり方とされている「お祓い」の中に留まろうとするのだろうか。
「月岡さん。こんなことを聞くのは酷かもしれないですが、もし月岡さんだったら、どうしますか?」
「どうするって、何をだ?」
「解決しない。いいえ、憑物落としの対処方法が間違っていたとしたらどうしますか?」