警察署の狭い一室に焦げたような香りが漂っていた。
部屋の外からは走り回る音や大声でのやり取りがうるさいくらい聞こえてくるのに、中はとても静かだ。
マグカップの湯気とタバコの煙がゆらゆらと立ち上っていった。
お湯を注いだばかりのインスタントコーヒーを口に運ぶ。香りも味も期待はしていなかったが、予想よりも下回っていて舌が驚いた。なんというかザラザラとしている。自宅で飲むカフェオレの香りを思い出すと吉良は、諦めたようなため息を吐いた。
「味を期待するんじゃねぇ。ここはオシャレなカフェじゃないからな。カフェインを摂取するためだけのただただ苦いコーヒーしか置いてねぇんだよ。甘いモノなんて全くないしな」
月岡はイライラを隠すこともなく次の一本に火をつけた。同じように喫煙者が多いのか、白色の壁の一部が黄色く変色している。その壁に煙が吐き出され、空気の中に混ざり消えていく。
「いいんです。今はとにかく落ち着きたいので」
吉良はもう一度コーヒーを飲んだ。ザラッとした苦味が喉奥に流れ込んでくる。
月岡が想定していたように、案の定二人は現場から遠ざけられてしまった。それどころか老婆──椿杏の件で真っ先に疑いを掛けられて事情聴取を受けた挙げ句に、この小さな会議室に閉じ込められ軟禁状態になっている。
怪しまれること自体はよくあることだった。誰もがあやかしとは無縁で生きている。そうありたいと願っている。
警察組織が使う事件という単語は無意識に人間が起こしたものに限定されている。せいぜいが動物が範疇に入るくらいであやかしは事件の外に置かれるのだ。
まずは人の手によるものと仮定し、それでもだめなら動物の仕業と考えしらみつぶしに可能性を当たっていく。そして、ようやく打つ手がなくなり、お手上げとなった段階であやかしの存在に気がつくのだ。
通常の捜査の手順としては正しいのだろう。だが、それでは事態は進んでしまう。
「なあ、あれはどういう意味なんだ? 自分のせいって……」
剥がれた跡の残る黒革のソファにもたれ掛かると長い脚を組み、月岡は携帯をいじり始めた。
「この手帳にそんなことが書かれていたのか?」
「いいえ、違います」
断言すると、吉良はマグカップから手を離し立ち上がる。そのまま月岡の横へと腰掛け眼鏡を上げた。
「この手帳は、僕との面談についての椿さんの感想が書かれているもの──と、最初はそう思っていました」
「違ったのか?」
「正確に言えば、それだけではありませんでした。面談の様子や感想も綴られてはいた。だけどもう一つ。行って帰る。面談の後に僕の知らないどこかへ行って帰ってきた。そのことも書かれていたと思われます」
「どこかへ行って帰ってきた。おい、それって……」
「はい。病院で亡くなった中学生の少女のエピソードに出てきたワードです」
「つながりがあるって言うのか? 土地も離れている、日時も違う。偶然と考えた方が自然だろ?」
「……普通はそう思いますよね。僕も正直確信はありません」
「じゃあ──」
「ですが」
吉良は静かに顔を上げると、月岡の鋭い目を真っ直ぐに捉えた。
「毎月第一水曜日に遅れることなく、休むことなく時間通りにピッタリと来て、帰っていく。これを丸二年間一度も欠かさず続けてきた。暑い夏の日も、寒い冬の日も、体調が悪いときだってきっとあったはずです」
「どういうことだよ? わかるように説明してくれ!」
「一種の
「だったら、何か? その呪いとやらであやかしが生まれたっていうのか?」
月岡は三本目の煙草に手を伸ばす。その指が、微かにではあるが震えていたのを吉良は見逃さなかった。
「わかりません」
吉良は首を横に振った。
「しかし、古来よりあやかしと呪いは深い関係性があるのも事実です。たとえば、
二年経っても問題は解決しないどころか原因も明らかにならなかった。本質的なことはほとんどわからず、上辺だけをずっとすくい続けているような。それでも、話を続ける中で言葉を交わす中で、
「面接を通して水子霊の形が椿さんの中にできてきた。それを知らず知らずどこかへ置いて帰ってきたとしたら、また、それを続けることであやかしの形が生まれてきたとしたら」
それは、それは──。
「僕のせいだ」
二年間も何も知らずに話を聞いていた。何も考えずに話を聞いていた。無かったはずのあやかしの形を生み出し、大きくさせてしまったとしたら、それはあまりにも無防備な自分自身の失態でしかない。
「……本当にそうなのか?」
換気扇もない部屋には、タバコの匂いが充満していた。それでもなお吸い続ける煙が天井隅へと集まっていく。
「別に疑っているわけじゃねぇ。だが、どうにも腑に落ちないところがある。納得できないんだよ。その、お前のせいだって言うのがな」
タバコの先を潰すと月岡はソファから立ち上がり、頭を掻いた。