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第14話 鬼灯の効能

 咄嗟の行動だったのだろう。だが、愛姫のその行動によって吉良はさらに動揺した。


 正確に言えば愛姫の行動のためではない。行動はただの反応であって反応を引き起こしたのは自分の未熟な行動ゆえ。


 そういくら頭の片隅で理解しようとしても、感情は決して納得してくれなかった。


「愛姫……僕は」


 弁解しようとした口が許せなかった。言い訳を考えたことが許せなかった。


 最低なことをしてしまったんだ。子どもに八つ当たりをしてしまうなんて。


「……ごめん!」


 本当はこんなことをしたいわけじゃない。でも、足が勝手に部屋の外へと飛び出していこうとする。


 吉良が怒鳴ってしまったとき、愛姫はおそらくはあやかしの本能として腰を落として迎撃姿勢を取っていた。


 対峙した吉良は敵として判別されたと、肌が感じ取ってしまっていたのだ。


「待って!!」


 愛姫はこの場から逃げようとする吉良の服の袖を掴んだ。


「話を聞かせて! 伸也くんが怒る人じゃないことは知ってる! びっくり、びっくりしただけだから!」


 愛姫ならそう言うとわかっている。愛姫の性格や考え方は痛いほど知っているんだ。


 だからこそ、甘えようとしてしまう。今だって。こんなときだって。


「だめだよ。今は冷静じゃないから、ごめん!」


 無理矢理シャツを引っ張ってドアを開けた。


 ──そう確かに部屋の外へと出たはずだったのに。


 気がつけば天井を見ていた。じんわりと背中に軽い痛みを感じる。


 愛姫に投げ飛ばされてしまったと理解するまでそう時間はかからなかった。


「伸也くん」


 一拍置いて、何かが上から降ってきた。鬼灯だ。鬼灯が入れられたグラスが床へと落ち、グラスは無惨に砕け、橙の鬼灯の実が床に散らばった。


 愛姫の両手が吉良の頭の横に置かれる。ちょうど四つん這いになるような格好で、愛姫の顔がぐっと近付いてきた。


「……何かあるんでしょう? 仕事のことで。さっきだって刑事さんがいきなり来て、伸也くんを連れてきたんだよ。私はさ、人前に出てはいけないし刑事さんが心配なくって言っていたからひとまず任せてそっとしておいたけど。気を失うなんておかしいでしょ! 優希に怒鳴ったことだって。お願いだから逃げないで、ちゃんと話してよ!」


 真剣な瞳が訴えかけてくる。表面には水が溜まり、今にも涙が零れ落ちてきそうだった。


「……ごめん」


 またしても謝ることしかできない自分が情けなくなる。本当なら気の利いた言葉でも言って安心させてあげることができればいいのにと思いながら。


 ──いつもそうだ。上手く立ち回ることができない。そつなくこなすことなんてできない。


 まただ。また、自分のせいで無駄な時間を費やしてしまった。家族にも迷惑を掛けてしまった。


 視線を逸らす。


 愛姫の柔らかい手が頬を触り、半ば強引に自分へと視線を合わせた。


「謝らないで。おかしいよ。一人で抱え切れないから一緒にいるんじゃないの? 私が大変なときは伸也くんが、伸也くんが大変なときは私が、支え合うんだよ」 


 瞳から涙が零れ落ちる。はらはらと落ちる涙は吉良の頬へと落ちていく。


「私たちはさ、二人しかいないんだよ。私の力が全く効かないのは、伸也くんだけ。私は人間じゃないし、こんな能力だけど、伸也くんだけが理解してくれるんだよ。今のこの社会の中で私たちが生きていくためには、優希が生き抜いていくためには、支え合わなきゃ。違う?」


 川姫というあやかしは、鬼などのように人間にとって格段に驚異な存在というわけではない。


 戦う力はあるがさほど高いわけではなく、また外見上人間との違いがあるわけでもない。


 愛姫が吉良を簡単に投げ飛ばすことができたのは、あやかし本来の力ではなく人間から身を守るために母親から教わった護身術によるものだった。


 ただ彼女らは厄介な能力を、産まれ落ちたときから身に纏っている。より正確に言えば、人間によって形作られている。


 川姫は男性の精気を奪う、と語り継がれているあやかしの一種だ。川辺に現れて若い男性を誘惑し、その精気を奪うという。


 だからその容姿が美しいのは、その仕草が魅惑的なのは、その性格が愛らしいのは、その笑顔がキレイなのは、男性に好まれ気に入られるために形作られた能力によるところが大きい。


 そのため愛姫は人前に立つことを極度に嫌っている。身を守るために。


 産まれてから今まで、愛姫はなるべく顔を隠し、俯いて目立たないように生きてきた。


 自分の力が発揮されないよう自らの心を偽り、自分を殺しながら生きてきた。


 愛姫にとっては消し去ってしまいたいその力に左右されることのない唯一の存在が、吉良伸也、その人だった。


「……違わないよ。だけど、だからこそ、甘えるわけにはいかなかった」


 愛姫は優希を生んでからまだ三週間も経っていなかった。本来なら体が妊娠前の状態に戻る産褥期さんじょくき。安静にしていた方がいい。


 それにも関わらず吉良は仕事を休むことはできず、依頼は突然やって来る。ことがことだけに断るわけにもいかないし、せめて迷惑だけはかけないようにとやってきていた、つもりだった。


「ごめん。泣かせてしまって。結局こんなことに。僕にもっと力があれば」


 ──そうだ。月岡さんのように力があればこんな風にはならなかったかもしれないのに。


「……伸也くん。本当にそう思ってるの?」


 綺麗な指で涙を拭うと、愛姫はすっと立ち上がった。


「自分に力がないとそう思っている? 本当にそんなことを考えてるんだとしたら、とんでもない間違いだよ」


 愛姫は困惑している吉良の顔の前に右手を差し出した。


「だってさ。私のこと、あやかしのこと、ここまで理解してくれているのは伸也くんくらいだよ。その力もないなんて言うんだったら──私、絶対に許さないからね」


 見上げると笑顔がそこにあった。 


 無理をしているような、遠慮しているようなキレイなだけの作り笑いではなく、くしゃくしゃな、一緒に笑い合えるような笑顔が。


 吉良は躊躇し、恐る恐る差し出された手を掴んだ。胸の底から沸き上がる気持ちが、愛姫の性質によるものではないことを確認しながら。


 優希の泣き声が、一層大きくなる。


 一瞬、お互いに表情が固まり、次の瞬間にはそれぞれがもう親という任務を果たすために動き出していた。


「ごめんね、優希! ちょっと待って!」


「お腹が空いたのかな? それかオムツ──」


「大丈夫! 伸也くんは、ほら、あの落ちちゃった鬼灯とかコップとか!」


「そ、そうだね。踏んだら危ないから」


 ひとまず安全な場所に移そうと、吉良は床に落ちた鬼灯を拾い上げた。念のため形が崩れていないか確認する。


 そのときだった。


「……鬼灯?」


 急いでもう一つ摘み上げる。こちらの方は落ちた衝撃でぐしゃっと形が崩れてしまっていた。


「鬼灯は昔、鎮静剤として薬としても使われていた。だがもう一つの使い方は──」


 優希がもう一度泣き声を上げる。赤子特有のあの泣き声だ。


 急に月岡の言葉を思い出した。──『少女は最後、奇声を上げてそのまま床に倒れ込んだところで心肺停止状態になった。生まれたての赤ん坊のような声だったらしい』。


 奇声は赤子の声だった。


「赤子。いや、まさか──」


 吉良は割れたコップを手早く片付けると、鬼灯の実を一つスラックスのポケットに仕舞い込んで書斎へと駆け込んでいった。


 薙ぎ倒してしまった書類の山を一つひとつ片しながら目的の物を探す。


「確か、どこかに記録を──」


 依頼人からの相談は全て記録しファイルにまとめている。だいたいは一つのファイルに収まるくらいで依頼は終結に向かうものだが、中には束ねると膨大な記録になるケースもある。


 もしかしたら、今回の餓鬼の件に関連する可能性があると乱雑ながら置いていた記録もその類だ。


「あった。これだ」


 「いわゆる水子霊に纏わる一怪異」と表紙の付けられた分厚いファイルを机の上に置いた。いわゆる、と書いてあるのは水子霊があやかしなのかどうか、ゆえに実在するものなのかどうか吉良には判断できなかったからだ。


 一般的な解釈として、水子霊は、生まれて間もなく、あるいは生まれることなく亡くなった赤子の霊を指す。


 水子霊の話は巷に溢れているが、霊とあやかしは似ているようで全く違う概念だ。


 そのために最初に話を聞いたときには、仕事の範囲外ということで断ろうとしたのだが、どうしてもここで相談に乗ってほしいと言われ断り切れなかった。もう丸二年になる長期の依頼だ。


 吉良は当初、赤子の泣き声は例えだと思っていた。赤子のような・・・泣き声。それはそうだろう中学生とは言えもう大人の体。


 だが、例えではなく本当に赤子の声だったとしたら。


 吉良は時計を口元に近付けると水子霊の依頼主に電話を掛けた。


 鬼灯はその昔、薬ではなく毒としても使われていた。茎や葉、根茎に含まれる毒を利用し、堕胎剤・・・として。


 コール音が何度も繰り返される。吉良の指が忙しなく唇を行ったり来たりと触る。


 ──いや、待てよ……関係あるのか? 場所が全然違う……年月も離れている……。


 コール音が切れて留守番電話サービスへと切り替わった。吉良は爪を噛んだ。


「落ち着け。そんなわけがない。全然違う問題じゃないか。大丈夫。もう一度整理して──」


 ピピピピッと、腕時計にメッセージが届いた。依頼人からだ。表示された画面が替わり、文面を見た吉良は思わず声を上げた。


【たすけてたすけたすください】

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