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第13話 赤子の声

 重い腰を上げると、吉良は2階へと上がっていった。


 なにはともあれ、また愛姫に迷惑をかけてしまったのは事実だ。愛姫は体調を崩したばかりでこれ以上迷惑はかけられない。


「ごめん愛姫」


 リビングのドアを開けると、奥の置き畳の上で一人で手と足を動かして遊んでいる優希のぼんやりとした笑顔が目に飛び込んでくる。


 優希が父親の顔をちらりと見た気がした。手足をゆっくりとバタつかせると、何かを求めるように赤子特有の高い声を発した。


 パートナーはその隣で眠っているようだった。近付いていっても、赤子の声にも反応を示すことなく熟睡している。


 具合が悪いのかと疑い、広いおでこを触ったが熱くはなく、無防備な幸せそうな顔で軽く寝息を立てているのを見て、吉良はタオルケットを掛けて優希を抱き上げると足音を立てずに再び一階へと降りていった。


 降りる途中。玄関棚に鬼灯が活けられているのが吉良の目に入った。来客時などに使うガラス製のロンググラスを花瓶代わりにして上手い具合に鬼灯の橙色の実が三つ、グラスのふちにかかるように入れられていた。


 近くへ寄れば興味があるのか優希は半ば眠たそうだった目をパッチリと開けて手を伸ばそうと試みる。


「鬼灯はね。魔除けの効果があるんだ。もしかしたら、生まれたばかりの君を守ってくれるかもしれない。まだ、力の無い君をね。……いや、力が無いのは僕の方かもしれないね」


 俯いた拍子にメガネがズレてしまった。優希が新しいオモチャを見つけたみたいにかわいい声を出しながらそのメガネをなんとか掴もうとしている。


「あっちょ。これはダメだよ」


 掴まる前にメガネを掛けると、吉良は階段を降りて扉のドアノブに手を掛けた。


「そうだ。鬼灯はね。見るだけで触っちゃだめだよ。まあ、大丈夫だとは思うけど。あれの茎や葉っぱ、特に根には強い毒があるんだ。昔の人は薬やそれから……そんな難しい話はいくらなんでも早過ぎるか。飾っておくだけで魔除けの効果があるらしいからね」


 昨日と同じようにベビーベッドに寝かせると、吉良は重い足取りで書斎へと向かっていく。


 自分を呼ぶような甘えた声に幾度か振り返りそうになったが、その度に時間がないと、自分に言い聞かせるようにして本や資料が大量に置かれた奥の部屋へ向かった。


「──わかってるよ。やらなきゃいけないんだ。早く原因を見つけないと」


 また誰かが亡くなってしまう前に。関連すると思われる本や資料は机に乱雑に置いたままにしておいた。どの文献も昨日、一通り目を通したのだが、もしかしたら何か見落としがあるかもしれない。


 先程の月岡の言葉が甦る。


「わかってるよ。そんなこと。十分、わかってるんだ!」


 沸き上がる感情のままに邪魔な椅子を引き倒すと、吉良は立ったまま文献を読み漁り始めた。


 小一時間は経っただろうか。微かな泣き声が聞こえた気がして、吉良はびっしりと書き込まれた小さな文字列から顔を上げた。


 いつの間に夕刻が近付いているのか、部屋の中は薄暗闇に包まれていた。


 額に滲んだ汗を手の甲で拭うとまた分厚い本に視線を戻す。何度も落ちてくるメガネが邪魔だった。


 吉良は焦っていた。探しても探しても何の手掛かりも得られないからだ。何を読んでも餓鬼が同時に大勢の人間に取り憑くなんて例は書かれていなかった。


 一応の例としては、合戦中に餓死した兵士の亡霊が餓鬼になって峠越えの旅人に取り憑くという話がある。戦国時代の話だ。


 だが、基本は単数。そもそもあやかしの意識と行動には人間が作り出したイメージが反映される。人間のイメージがあやかしの形を決めるからだ。


 餓鬼がこの概念通りに動くあやかしだとするならば、餓死者が大勢いなければ成立しない。


 どこにでもコンビニやスーパーがあり、フードバンクやらフードドライブが盛んに行われるくらい大量の食べ残しが日夜捨てられているこの飽食の時代において、一度に大量の餓死者が生まれることは基本的にはありえない。


 餓鬼の発生が時代を経るに連れて減少しているのも、その証左と言えるだろう。


 泣き声が大きくなった。ドアを挟んだ向こう側から聞こえてくる。


「……どうしたらいいんだ」


 散らばる点がどうしても線に結び付かない。直感では餓鬼だとわかっているのに、現象の背後に蠢くはずのものが見つからない。


 連関が、原因がわからなければ、あれだけの量に対応することはできない。


 取り憑かれた者は栄養が取れずにやがて生命を維持するために必要最低限の栄養も枯れていく。


 結果、多くの人の命が失われる。まだ中学生だった内田紗奈のように。


「くそっ! どうしたら、どうしたら!!」


 赤子の泣き声は大きくなるばかりだった。いよいよ切迫し、急かし助けを求めてくる。


『お願いします。一人娘なんです。ようやくここまで……』


「……うるさい」


『覚悟はあるんだよな?』


「うるさい……うるさい」


『さっさと原因を特定しなさい! 吉良!!』


「うる……さい」


『助けるって言っただろ!! 私の子はどこだ! 返せ、返せ返せ!!』


「うるさい!」


 本を資料を片端から床へ投げ捨てると、吉良は両拳で机を叩き両耳を塞いだ。


 それでもその耳を突き抜けるように生まれて間もない我が子の泣き声が、容赦なく鼓膜を通り侵入してくる。


 病室で見た光景が思い起こされる。血溜まりに、噛み切られた点滴。死ぬ直前に少女は声を上げたのだ奇声を。恐らくはきっと耳をつんざくような奇声を。この泣き声に似た奇声を。


 吉良はもう一度机を叩くと、突進するようにドアを開けてなり振り構わず怒鳴り付けた。


 そこにいたのは優希だけではなかった。泣き声を聞きつけて降りてきた愛姫が、驚いたように口を開き、我が子を庇うように吉良の前に立ち塞がった。

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