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第10話 異常事態

 車のエンジンが掛かる。タンブラーに入れたホットコーヒーを一口飲むと、吉良はアクセルを踏んだ。


 早朝からの呼び出しだった。沙夜子から「至急、鬼救寺まで来て」という電話が掛かってきて一方的に切られたが、慌てた様子の早い口調は、言葉にせずとも重大な何かが起こったことを伝えてくれた。


 昨夜は調べ物と検討を繰り返していて気付いたらもう周りが明るくなっていた。それから仮眠して着信音で叩き起こされたからほとんど寝ていない。


 昨日の今日だ。まだ愛姫の体調に不安は残っていたものの、緊急事態だということで止むなく子どもを預けて出発したのが午前5時。


 まだ街は眠っている時間だった。こういうときに預け先があれば、見てくれる人がいればといつも思う。


 道は予想通り空いていた。元々渋滞など滅多に起こらない車量とはいえ、この時間帯ではほとんど車通りがなく、前方車も対向車もないまま信号にも捕まらずに鬼救寺までの道をひたすら真っ直ぐ進んでいく。


 呼び出された理由は、昨日の怪異でまず間違いない。


 起こり得ることとすれば新たな情報か、もしくは新たな相談者の出現か。


 沙夜子の慌てぶりからすると後者のような気もしていた。


 すでに取り憑かれた者が三人出ている。あのあやかしの性質上すぐに取り憑くことを考えると、新しく取り憑かれた者が出てもおかしくない。


 ただ問題は、過去の資料をいくら探しても、餓鬼憑きやヒダル神、あるいはそれに類するあやかしの中に今回のケースに当てはまるような話が見当たらないことだった。


 人間に取り憑き何らかの食の異常を引き起こすあやかしの伝承は全国各地に残っている。


 というよりもよくある話・・・・・ではあるのだ。特に仏教における六道の一つである餓鬼道という概念から生まれた餓鬼は誰もが知っているようなあやかしである。


 絵に描かれている姿は、お腹だけが膨らみ他は痩せている子どものような形をしており、病室で見た形のあやかしとは全く異なりしっかりと確立した形を持っている。


 ヒダル神は山や峠という出現場所が限定された餓鬼の一種だ。


 安定した姿は残っていないが形はあり、やはり病室で見たあやかしとは異なる。


 形のない不定形。つまりはあやかし自身が自分の形の認識が確立できていない。


 しかし、認識が進めばやがて餓鬼のような形になる──という可能性はあり得る。


 ちょうど自分と他者の認識が曖昧な赤子が、成長の過程のどこかで自己を認識する瞬間が訪れるように。


 だとしても、そうだとしても、そんな存在が同時に複数体現れるなんてことは流石に聞いたことがなかった。


 様々な情報の中で吉良の頭の中で引っ掛かているのは、最も状態が悪化している内田紗奈が「どこかへ行って帰ってきた」ということ──。


 急に車が前方に現れてブレーキをかける。前方の車は急いでいるのか、クラクションを何度も鳴らしていた。


「あれっ?」


 思考に集中するあまり気がつかなかったが、前方に車が何台も続いていた。数珠繋ぎとはこのことだと示すように。


「渋滞?」


 吉良は胸騒ぎを覚えた。今はちょうど二車線から一車線に変わった辺り。車の連なる先にあるものは鬼救寺しかない。


「まさか……」


 吉良の不安に応えるようにクラクションは鳴り続けた。


 一台だけではない。つられたように他の車からもクラクションが聞こえてくる。


 苛立っている。違う、焦っている。焦燥感に駆られた不協和音が何かに感染したように広がっていく。


 鬼救寺に用事なんて一般の人間にはない。それどころか日常生活とは切り離されて、心霊スポットのようにまるで存在してはいけないものとして扱われているのが実態だった。


 そんな寺に大勢の人間が詰め掛けるその理由は、一つしか見当たらなかった。 


 一際大きいクラクションが吉良の耳に飛び込んできた。


 バックミラー越しに後ろを見れば、今にも泣き出しそうな表情で何事かを喚きながらハンドルを握る男性が。そして、助手席には──。


 これまで何度も見てきた変わり果てた女性の姿があった。


「う、嘘だ……そんな……そんなっ!」


 エンジンを止めるのも忘れて吉良はシートベルトを外すと車の外へと飛び降りた。


 並ぶ車のどこを見ても、窓ガラス越しにぼんやりとその姿が浮かび上がる。ある者は座り、ある者は横になり、ある者はもたれかかる。極限まで痩せ細り、瞳だけは異様に大きな姿で。


 吉良は思わず呟いていた。姿態と酷似する存在の名を。理屈ではなく直感が確信を導き出した。


 理由はわからなくとも確かにそこにある。その名は。


「餓鬼だ。間違いなく、餓鬼だ」


 クラクションに混じってパトカーのサイレンが走ってきた。音の方向へ顔を振り向ければ、ほとんど整備されていない一本道には不釣り合いな黒光りする車が向かってきていた。


 車は無理やり後続車を脇に寄せると吉良の目の前まで来て止まった。運転席のドアを乱暴に開けて顔を出したのは、月岡だ。


「何やってんだ! 乗れ!」


「の、乗れって言われても、車が……」


「エンジン止めて早く来やがれ! 間に合わねぇぞ!」


 言われた通り踵を返すと、エンジンを切ってバッグを手に指定された後部座席へと乗り込む。


 月岡が思い切りアクセルを踏むと、車はスピードを上げて突き進んでいった。


雨平あまひら!」


「了解です!」


 月岡の隣に座るのは制服を着た警察官だった。道を開けるよう的確な指示を始める。


 次第にクラクションは鳴り止み、車が避けていく。


 道が開けたタイミングで吉良は疑問を投げつけた。


「月岡さん……間に合わない、というのは?」


「寝ぼけてんのか? 見りゃわかんだろ! 異常事態が起こってんだよ!」

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