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第9話 家族のカタチ

「愛姫、どうし──」


 寝室のドアを開ける。


 泣き声は一層大きくなり、吉良の耳を突いた。


 夜でもすぐに対応できるようにとつけていた常夜灯の下、ベッドの上で愛姫は長い黒髪を乱れさせたまま仰向けに倒れていた。


「愛姫!」


 吉良の呼びかけに黒髪が波打つように揺れた。


「大丈夫。ちょっと目眩がしただけだから」


 愛姫は顔を上げた。作り笑いだった。


 いつもそうだ。辛いとき、苦しいときほど愛姫はこの表情をする。


 張り付いたような笑顔というか、感情の起伏を感じない笑顔というか、お手本のようなキレイな笑顔。だが、どんなにキレイな笑顔でも目だけがいつも笑っていない。


「ごめん、無理させて。休んでて。優希は僕が見るよ」


「……でも、伸也くんも疲れているから。沙夜子さんに呼ばれたなら、何か大きな出来事でしょう?」


 上目遣いの瞳は熱を帯びているようにも見える。心配の色が大きな瞳にくっきりと浮かんでいた。


 愛姫の瞳に見つめられるとつい甘えたくなってしまう。その理由と意味についても、愛姫と長く共に生きている吉良は十分熟知していた。


 だから吉良は嘘をついた。


「大丈夫。それほど大したことはなかったよ。まあちょっと入り組んでいるけどすぐに解決できる」


「本当? だったら、いいんだけど」


 赤子の泣き声がさらに激しくなり、会話を中断させた。吉良は急いで優希を胸に抱く。


「お腹、空いているのかもしれない」


「ミルクだね」


「それがダメならオムツかも」


「確認してみる」


「それでもダメなら──」


「大丈夫! 何とかするよ!」


 心配したらキリがない。そういう性格だと知っている。


 この場にいては愛姫が休めないので階下へと移動した。


 オムツを替えてミルクをあげて、容器の中身が半分くらいに減ったところで優希は目を閉じながらちゅぱちゅぱと哺乳瓶の乳首を吸っていた。


 ゆっくり、ゆっくりと吸う速度が緩やかになっていく。


 ふわっと、この時期特有の柔らかな匂いが漂い、温かさも相まって吉良の瞼も落ちてきた。





 ゆらゆらと漂う。目は見えない。どこかから聞こえる声は穏やかで、柔らかな匂いがする。ゆらゆらと漂う。ゆらゆらと。


 何かが弾けて離れた。落ちてゆく、落ちてゆく。真っ逆さまに落ちてゆく。どこまでも、どこまでも。





『……よろしくお願いします。娘を助けてください』『覚悟はあんのかって聞いてんだよ!』


 吉良はハッと目を開けた。


 いつの間にか腕の中で寝ていた我が子の口から哺乳瓶を外す。


 背中を立たせて背を撫でると、ゲプ、という音が口腔内から広がり、甘い香りがした。


 吐き戻し防止のため、赤ん坊は背中を撫でて胃の中に溜まった空気を出してあげる必要がある。これで一安心だ。


 優希は一度、睫毛がいっぱいで重たそうな瞼を上げたがすぐに眠ってしまった。穏やかなリズムの寝息が夜の静けさの中にとけていく。


 吉良はじっと小さな顔を眺めていた。睫毛が多く大きな目はやはり愛姫に似ている。全体に丸い輪郭は自分かもしれない。性格は……まだどちらともわからないな。


 同じように愛姫のあやかしとしての力がどこまで受け継がれているのかもわからなかった。遺伝に由来するものなのか、環境によるところが大きいのか。


 そもそも愛姫の持つ力がいつから顕現されているのかは本人もわかっていない。


 人には無数の素質がある。どの素質が芽生え、育み、発揮されるのか。あるいはどの素質が眠ったままなのか。誰にもわからない。


 吉良は、滑らかな木製の白椅子に座って左右に揺れた。より深い眠りに誘うように。


 このままあやかしの力が発現しなければ平和で過ごせるのかもしれない。でも、そう願うのもまた親としては失格なのかもしれない。


 自分らしく生きられればいい。そう思ってもまた、どうなるかは誰にもわからない。──そういう時代だ。


「せめて孫の顔だけでも見に来てくれればいいのにね」


『勝手に生きろ。だけど、もう二度と会うことはない。死んでもお前達には関わりたくない』


 父親から面と向かって言われた言葉がチクリと胸にささる。


 吉良の両親も他の友人らと同様に愛姫のことを告げると離れていった。


 わざわざ自宅に絶縁状が届いたのは、その一日後のことだった。


 一息ついたところで吉良は階段を降りていった。間違えても落とさぬようにしっかりと胸に抱いたまま。


 一階に着くとベビーベッドに子どもを寝かせてその上に毛布を掛けた。


 どんな夢を見ているのか、可愛らしい寝顔をもう一度じっくり眺めてから吉良はそっと電気を消すと、奥の書斎に移動して仕事に取り掛かった。


 眼鏡をかけ直す。


 机の上に相談時に使う白いメモ用紙を置くと、気になる点を書きつけていく。頭の中を整理するには、直接文字を書く方が効率が良かった。


◯餓鬼憑きあるいはヒダル神による一怪異


・三名の女性──成人、高校生、中学生それぞれ一名が「食に関する異常」を訴える。


・拒食に異食、そして過食。背後に「餓鬼憑き」かあるいは「ヒダル神」、あるいはまた別の「何か」による憑依が考えられる。


・三名の間の関係性は不明だが、今のところ接点は見当たらない。


・うちニ名、異食と過食症状のあった中学生、内田紗奈と、鬼救寺に訪れた高校生に「結界陣」を使用。効果はありあやかしは消滅。しかしすぐに同じ症状に襲われる。特に内田紗奈は一分も掛からずに元の状態に。


・憑依と見られる内田紗奈のみ、行先不明でどこかへ行って帰ってきた。


「そして、あやかしの特徴は──」


・不定形の形。陣によって姿を現した後は、かろうじて三次元に存在することができるが半透明。自力で具象化できないほど力が弱い。だが、その数は未知数。やはり、餓鬼かヒダル神の原型なのか、あるいは他の何かなのかは不明。


 流暢に動いていたペンが止まった。吉良は眼鏡の縁を上げると暗い天井を仰ぐように見上げた。


「……こんなあやかし、本当にいるのだろうか?」

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