病院を出た三人は何も言葉を交わすことなく、駐車場へと戻っていった。
とにかく体をどこかへ落ち着けて休みたい──吉良は極度の疲れを感じていた。
冷たい風が吹く。
夜はすっかり冷える季節になっていた。こんなに寒い日は、温かいコーヒーでも飲んでゆっくりと本でも紐解いていたい。数日前に購入した民俗学の本がいいか、全く関係ない小説がいいか。
そんなことを考えながら歩いていると、ポケットに手を突っ込んだまま前を行く月岡が急に振り返った。
ビクリ、と肩が震えたのは寒さのせいだけではないだろう。
「覚悟はあるんだよな?」
突き刺すような月岡の言葉は、風を切りはっきりと吉良の耳に届いた。
「助けると約束した。その結果を引き受ける覚悟はあるのかって聞いてんだ。今まで散々見てきた。『任せてください』『大丈夫ですよ』、軽々と約束して結果に裏切られてきた連中を。吉良先生。あんたはどうなんだ? だいたいあんたにあやかしをどうこうする力は無いんだろ。陣とか言う力を持つそこの柳田とは違って、特別な力はないはずだ。あるのはくだらないあやかしの知識だけじゃねーのか?」
「月岡、あんたまた突っかかってきて──」
「力がある奴はいいんだよ。あんたが十分あやかしと戦えることはわかった。あんたはホンモノだ。だけど、先生は知識だけで何もできやしない。まだ何も手掛かりを掴んでいないんだろ? 専門家という雰囲気だけをプンプンと匂わせて、適当なことを言ってるだけじゃねーのか?」
手を握る。震えがわからないように。吉良は慌てて眼鏡を上げた。
「ぼ、僕には確かに力は無い。だけど、経験がないわけじゃない。これまでだって……」
「覚悟はあんのかって聞いてんだよ!」
体を震わせるような怒鳴り声が夜闇に
なんで、そこまで。月岡の行動の意図が吉良には全くわからなかった。関わりたくないと、巻き込まれたくないと言っていたはずなのに。
暗闇の中でもわかるほどギラギラした瞳が答えを待っていた。
無茶苦茶ではある。正直、腹立たしい。だが、今突き付けられた質問は正論だった。
隣にいる沙夜子が口を閉じたのもそれがわかっているからだろう。
吉良は、握った手をさらに強く握り締めた。
「覚悟はあります。無いならこんな仕事は最初からしていない。怖気づいてしまった部分はありますが、約束した以上はもうやるしかない。原因を突き止めてみせます。それが僕の仕事だから」
「……それならいい」とだけ言うと、月岡は来たときと同じようにすぐに車に乗り込み駐車場を後にした。
「わけがわかんないのはどっちなのよ」
後姿を見送る沙夜子が呆れた声で呟いた。
「……そうですね。だけど」
確かにわからない。わかったのは自分とは性格が合わないということだけだったが。
「何か芯があるということはわかりました」
*
沙夜子を鬼救寺に送り、そのまま吉良は自宅へと帰ってきた。予想を超過しての帰宅時間。時刻はもう深夜に迫っていた。
真っ暗な車内で時計をチェックする。愛姫からのメッセージが何通か送られていた。
【ご飯は、昨日のカレーです。温めて食べてください】
【
【お土産楽しみにしていますね】
吉良の子どもの名前は優希と言う。
愛姫と一緒に名前辞典やインターネットで調べて考えた名だが、主に愛姫が案を出した。
あやかしの中でも固有の名前を持つものは少ない。大抵は人間がつけたそのあやかしを総称する名で呼ばれ、お互いも呼び合うが、たとえばあやかしの代名詞でもある鬼であれば固有の名前をつけられた者も多数存在するように、自身の名を持つ者が存在する。
「名は体を表す」というように、固有の名を持つものはアイデンティティが極めて高い段階で確立されている。
抽象的な形ではなくより具体的な形を持ち、ほぼ人間と同様の精神構造を持っている。違うのはやはり人間には持ち得ない特有の力や能力だ。
愛姫、川瀬愛姫は同じくあやかしである母親からその名を授かった。
あやかしがあやかしに名をつけること自体珍しいことではあるが、やはりそれだけ精神構造が発達している証左でもある。
名の意味は、あやかしとしての総称である
愛姫の母親は、若くして人間の襲撃に遭い命を奪われていた。
愛姫はだから自分たちの子は優しい子がいいと言った。とにかく優しい。人間もあやかしも分け隔てなく愛せるようにと。
そして希望の持てる子がいいとも言った。どんな逆境でも希望を持って歩けるようにと。
吉良は、助手席に置いた鬼灯を手にする。沙夜子に言われたことが気に掛かっていた。お守りにでもなればという意味でもらったこのお土産で果たして喜んでくれるのだろうか。
今さらもう仕方がないかと鬼灯と小さなバッグを手に車を降りる。静かにシャッターを下ろすと若干狭いが縦に長い3階建ての自宅へと戻った。
細心の注意を払ってドアを開ける、が──。
優希の泣き声が降ってきて吉良はぎょっとした。今までの吉良の経験では、どんなに静かにドアを開けたとしても泣くか泣かないかは五分五分といったところ。
一日中家にいて疲れているだろう愛姫を起こすのは忍びなかった。
吉良は静かにため息を吐くと、頭を二、三度横に振った。
妙だった。いつもならすぐに起き出して優希をあやす音や愛姫の歌声が聞こえてくるはずなのに、起き上がる際のベッドが軋む音も聞こえてこない。
泣き声はどんどん激しくなっていく一方で、吉良は玄関脇の棚に鬼灯とバッグを置くと、寝室にしている3階へと早足で上がっていった。