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第6話 陣

 薄緑の壁際、仰々しく医療機器が並べられた間に真っ白なベッドが置かれていた。


 ベッドに寄り添うように置かれた二つの丸椅子の上には両親と思われる中年の男女が背中を丸めて座っていた。


 部屋に入った瞬間に感じたのは部屋全体から漂う異臭だ。何かが腐ったようなすえた臭いが鼻につく。


 ベッドに近づくにつれてその臭いはどんどんと強くなっていく。


「……これは……」


 二本の点滴が規則正しく落ちてゆく。チューブを通って栄養が少女の腕から身体の中へと送り込まれている、はずだった。


「わからないんです。なんでこんなことになっているのか……」


 母親と思しき女性がか細い声を震わせた。


 丸まった背中が伸びると、くるりと顔が振り返る。


 痩せていた、というよりやつれていた。睡眠を取っていないのか涙が枯れないのか、目を真っ赤に腫らし、小刻みに首が震えている。


「教えてください……誰か……教えてください……」


 必死の母親の形相になんとも言えない思いを抱きながらうなずくと、吉良はもう一度視線をベッドの上で寝かされた少女──内田紗奈の方へと向けた。


 どうしても連想されるのは枯枝だ。これから訪れる長い冬の寒風に折れそうになる細い枯枝。


 おそらくは母親によって几帳面に掛けられた布団から伸びる少女の腕と脚は、骨の形が浮き出るほどに痩せ衰えており、それぞれが点滴や血圧計など医療機器に繋がれている。


 酸素マスクでよく見えないが、顔の頬骨は皮が剥がれるのではと思うほど張り出しており、その上にある二つの眼は閉じているものの目尻にはその年齢には全く似つかわしくない何本もの皺が刻まれていた。


 明らかに異常だが、このような状態でも、これも母親が毎日欠かさず櫛を通しているのだろう、左右に均等に流れる長い黒髪だけは年相応の中学生らしく見える。


 むしろその一点が、異常さを際立たせていると言えるかもしれない。


 点滴から注入される栄養の全てが髪へと行き渡っているようだ、と吉良は思った。


 腕と脚以外は清潔そうな真っ白な布団でキッチリと隠されている。


 身体の方も同様に背骨や胸骨に皮一枚が張り付いたような状態になっているはずだ。見るのも痛々しいほどに。


 異様な状態だった。そして間違いなくあやかしの問題だと言えた。


 ならば当然、医療的なアプローチだけではどうしようもない。


「月岡。ごめんなさい。ご両親に外で待っててもらえるように言ってもらえる?」


 沙夜子の指示に文句を言うことはなく、月岡は二言、三言状況を説明すると、両親を病室の外へと誘導する。


 俯き加減で力無く歩く二人の姿が限界を伝えていた。


 扉が閉められる直前まで、二人は倒れてしまうのではと心配してしまうほどに深く頭を下げていた。


「で、どうするんだ?」


 月岡は扉付近の壁に背中を預けると太い腕を組み、試すような目線を吉良と沙夜子に投げ掛けた。


「陣を展開する。形の無いあやかしの形を探るのよ」


 そう言うと、沙夜子は機器の間を通り少女の頭の方へと移動した。


 ピタリとちょうど真ん中で止まると、少女に向き直り、髪を耳にかけたまま少し首を傾げてその顔をのぞき込んだ。


 辺りが静まり返ったのがわかった。


 単に物音がしないのではない。


 足音や咳払い、喉を鳴らす音──どんな音を出すのもはばかれるほどの静寂が吉良の周囲を取り囲んでいた。


 吉良は、勝手に出る生唾を飲み込むのを我慢する。


 例えるとするならば、まるでこの部屋だけが周りの世界から切り離されたように感じた。


 袖口から沙夜子のほっそりとした白手が少女の額に向けてゆっくりと伸びていく。


「陣は、正確には結界陣けっかいじんと言う。あやかしと対峙するすべはいくつかあるけれど、ただの人が使える術はこれしかない。陣は、連なる世界の中にさかいを見つけ、作り出す。切り取られたその姿こそが、あやかしの形」


 腕が止まった。おそらくそれは世界が止まったのと同義。


 瞬きすら許されない時間の中で確かにそれの形は浮かび上がった。


 最初は目に見えないほどの円だった。三次元のモノではない。二次元的な朱色の墨で乱暴に描かれたような歪な丸が、呼吸をするように左に右に膨らみを足していく。


 やがて人の顔ほどの大きさに膨れ上がった円は、蠕動ぜんどうを繰り返しながら二次元の枠組みから三次元の球体へと移行し、空間へと現れた。


 連なる世界の一部として。


 ただしその中心は半透明で、常に円のどこからか血のような赤色が滴り落ち、形の変容を繰り返している。


「……なんだ……コイツは……!?」


 月岡の声の端々から驚嘆や焦燥の感情が漏れていた。黙ってはいたが、吉良も同じだ。


 今まであらゆるあやかしを見てきたが、こんなにも具体的な形を成していないモノは初めてだったからだ。


 最初は眼鏡のレンズを疑った。次には自分の目を疑った。だが、どちらも違った。


 アメーバのように、あまりにも曖昧模糊としたこの形こそが、具象になりきれない抽象的なこの形こそが、このあやかしの描く形なのだ。


「つまり、このあやかしの自己認識そのものがこのように曖昧だということです。言ってみれば墨で描いた絵のように」


「全然わからねぇーよ! きちんと説明しろ! あやかしって、狐とか鬼とかそういうのだろ?」


 月岡の言わんとすることは吉良でもなんとなくわかった。


 通常、あやかしは具体的な形を持っている。平安の時代の妖怪絵巻から連綿と伝わってきた人間の創り上げた・・・・・イメージが具象化した形だ。


「あやかしはね、本来実体なんてないのよ。人間のイメージが、意識が生み出した存在。気の遠くなるような長い年月を経て人間の記憶に定着したものだけが、あんたの思っている明確な形のあるあやかしだったってこと。だけど今はそんな解釈はどうでもいいわ。大事なのは、ほら、これで取り憑かれていたことがハッキリしたということ」


 吉良は眼鏡の縁を人差し指と親指で挟むと、ぐいっと押し付けた。


 枯枝だった少女の腕に再び肉が宿った。ふっくらとした瑞々しい肌が見る見るうちに戻っていく。

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