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第4話 衝突

 吉良は長く新緑のような色合いの畳を見ていたからか、ずり落ちそうになっていた眼鏡を上げた。


「病院の所見でも異常は見当たらなかったそうだ。今までならここで警察の出る幕はなくなる。異常だが病気として後は家族と病院に任せて、せいぜい噂話になっておしまいのはずだったが、あの法律ができてからそうはいかなくなった。異常な事件はあやかしとやらの仕業の可能性があるとして、捜査の範疇に入ってしまったからな。それで実に面倒くさいことだが、俺のとこにこの事件が回ってきたってわけだ」


 手帳を閉じてまた胸ポケットにしまうと、月岡は代わりにタバコを取り出した。一本を口に挟むと、ライターを探して背広をまさぐる。


「ちょっと! 禁煙に決まってるでしょ!」


 何の遠慮もない舌打ちが聞こえる。


「外は?」


「境内全部禁煙! だけど、そんなに吸いたいの?」


「そうだな。少しはあやかしなんぞに付き合わなきゃいけないこのイライラも収まるかもしれない。じゃ、二人で話し合いでも解釈でもなんでもしててくれ」


「あ、ちょ……」


 止める声も聞かず、月岡はすぐに外へと出ていった。


 襖が乱暴に閉められ、続けて外へと繋がる扉が音を立てて閉められた。


 急に静まり返る。虫の音が大きく聞こえる。


 いよいよ陽は沈み、夜の帳が下りたのだろう。


「あいつ!」


 沙夜子は立ち上がると、真っ白な足袋を履いたまま何度か畳を蹴った。


「お、落ち着いて!」


 慌てて吉良が止めに入るが、静止はできない。


 沙夜子はずんずんと仏像の置かれた内陣の方へ進むと、支えていた柱に手を当てた。


 近くにいかずともその腕が震えているのがわかる。


「その子がどんな気持ちで、家族がどんな気持ちでいるのかわからないくせに……」


「……沙夜子さん」


 柱から手を離すとくるりと振り返り、沙夜子は仏像へと手を合わせた。


 所々ひび割れ煤色の目立つ千手観音像。千の手で人々を救うとされる千手観音菩薩を形にしたもの。


 仏像を見ていると吉良は、あやかしがいるのなら仏もいるのではないかと、ときどき思索したくなる。


「さて、やるわよ。吉良」


 高い笛の音のような凛とした声が響く。


 声にも表情にも般若のような怒りはもう含まれていなかった。


 柱にもたれかかると、沙夜子は腕を組んだ。


「吉良はどう思う? 今の話、あやかしが関わってると見て間違いないと思うけど」


 吉良も腕を組んだ。顎を撫でながらまた畳を見る。


 浮かぶ状況は恐ろしく見えるが、実態は単なる異食だ。


 そして実は異食よりも深刻だと思われるのは、食べた量。


 部屋には食したと思われる物が散乱していたようで、少女は部屋の中にあったものを手当たり次第に食べても飽き足らず、庭から土や石を掘り出してまで食した。


 その異常な食欲の方が問題かもしれない。


「ただ問題は、異食と異常食欲、この二つが同じあやかしの仕業かどうか、ということです」 


 食に関する怪異として考えられるのはやはり餓鬼憑きかヒダル神だ。


 餓鬼に取り憑かれた餓鬼憑き。そして、ヒダル神は餓鬼憑きの一種とされ、山道や峠など出現場所が限定されている。


 中学生の少女がどこかへ行って、あるいは連れ去られて帰ってきたのかは定かではないが、もし該当する山道や峠に行ったのだとしたらヒダル神の可能性もある。


 食の異常は様々だ。


 食べられない、食べ過ぎる、食べ物ではない物を食す、その他にもあまりにも極端な偏食、味がわからない──などと細分化されるように、餓鬼にもいくつかの種類があり、取り憑かれた際に現れる症状も異なる。


 そう考えればこの二つはそれぞれ原因が違うと考えられるが。


 ふと、吉良は顔を上げた。掛けていた眼鏡が僅かに揺れる。


「沙夜子さんの所に来た相談はどういうものだったんですか?」


 高校時代からはもう何年も経っているのに、自然と敬語になってしまうのがなんとも情けないと思いつつ、たぶんこの関係はこの先も変わらないのだろうなと納得する。


 沙夜子の強い光を帯びた瞳が瞬いた。が、口を開く前に乱暴な足音が聞こえて襖が開かれた。


「さぁて。そろそろ何かわかったか?」


 若干、出ていくときとは上機嫌な口振りで月岡が帰ってきた。


 しかし、難しい顔をしている二人を見て盛大な溜め息が吐かれる。


「あんたら専門家なんだろ? そんなにのんびりしてて大丈夫なのか? あやかしの肩を持ち過ぎて上手い対策が浮かばないんじゃないのか?」


「! あんた……いい加減に!」


 詰め寄る沙夜子を嘲笑うように月岡は口笛を鳴らした。


「事実だろ? 現に吉良先生はあやかしと結婚して子どもまでつくったって聞いてる。そんな奴が人間を守るためにまともな対策が立てられるのか?」


 沙夜子の目が見開かれた。なくなったはずの怒りの形相が復活し、ニヤニヤと嘲る月岡に向かう。


 一度は抑え込んだ拳が今度は真っ直ぐにその対象目掛けて飛ぶ。


 両者の間に入った吉良の背中に沙夜子の右拳が当たった。


 鈍い音が弾ける。


「……あっ……」


「沙夜子さん、その手はあやかしと戦うときに必要な手です。大事にしてください。それから月岡さん」


 吉良は衝撃でズレかけた眼鏡を上げた。上手く見られなかった月岡の瞳に今度はしっかりと目を合わせる。


「僕と、パートナーの川瀬愛姫は結婚していません。あやかしと人間の結婚なんて法律上認められていないですから。そして、そのことと仕事は別です。話し合いが不可能なあやかしもいる。必要とあればもちろん、存在を消すこともいといません」


 月岡の燃えるような視線がぶつけられる。ガンをつけられるとはこのことかもしれない。


 内心、吉良は冷静ではいられなかった。


 心臓は鼓動の音が聞こえるくらい激しく動揺しており、全身に汗が噴き出していた。


 呼吸の乱れを隠し、体の震えを隠すのに精一杯でこのあとの展開は何も考えられていない。


 吉良にしてみれば、とりあえず止めるために入っただけであって喧嘩を売るつもりはなかったし、ハッキリと物を言うつもりもなかった。


 ただただ穏便にことを済ませようとしていただけなのに、自分の口からは恐るべき程の喧嘩口上が並べ立てられていた。


 カッとなったのか? 不意を突かれたのは確かにある。


 まさか会ったばかりの刑事から愛姫のことが言われるとは思わなかった。それも侮蔑的に、だ。


 だけどそんなこと今に始まったわけではない。


 愛姫があやかしだと知って相談に現れなかった依頼人もいる。距離を置いた友人も、あらぬ噂を流す知人もいた。


 その度に、何度も何度もぬめぬめとした黒い塊のような感情を呑み込んできたのだから。


 月岡の視線が離れた。背を向けるとスーツのポケットに片手を突っ込みボリボリと乱れた頭を掻く。


「──っで? じゃあ、何か策があるのか?」


 視線が外れたことで肩の力が抜ける。


 額には、もう真夏は過ぎたというのに玉の汗が噴いていた。


 吉良は汗を拭いながら、考えをまとめようとした。餓鬼憑きにヒダル神、拒食に過食。どこかへ行って、帰ってきた──。


 集めた情報を改めて断片的に繋ぎ合わせたところで、まだ何か足りないことに気がつく。


「まずは、行ってみるわよ」


 沙夜子が右腕をさすりながら答えを出した。


「病院へ。警察のあんたなら病室に入れるでしょ? それこそ専門家の力を発揮してちょうだい」


 月岡は鼻を鳴らすと襖を広げて板張りの廊下へと出た。


「病院へ行って何をするつもりだ? 娘は昏睡状態で話を聞くこともできない。付き添っている両親の事情聴取はすでに終わっているしな」


「試したいことがあるのよ。形のあるあやかしと違って憑物つきものは自分の形がない。だけど、私のじんならその姿を形作ることができるかもしれない」


「怪異を起こしているあやかしの姿が見えると、そういうことか?」


「違うけど、まあ、わかりやすく言えばそういうこと」


「……何でもいい。事件の解決に繋がるのならな。さっさと行くぞ」


 そう言うと、月岡はさっさと一人で外に出てしまった。


 車のエンジンが駆動し、砂利がタイヤに巻き込まれていく音が静かに聞こえる。


「あいつ……病院の場所も教えないで何を考えているの?」


「行き先はわかっているので大丈夫です。あやかしを見てくれるような病院は市内で一カ所しかないですから。それより──」


「ちょ、吉良! 大丈夫!?」


 体の力が抜けて吉良はその場に座り込んでしまった。


 落ちた眼鏡を拾い上げると、吉良はよろよろと立ち上がる。


「だ、大丈夫です。それより沙夜子さん。お願いがあります。鬼灯の実を少しいただけませんか? 愛姫と子どもにお土産を持っていこうと思いまして」


「そんなの別にいいけど、本当に大丈夫なの?」


「ありがとうございます。大丈夫です」


 まだ動揺している胸を抑えながら、吉良は前を見た。


 真っ直ぐ廊下を進んだ先の扉は夜の闇に包まれていた。


 途端に、得体の知れない冷えた感触が足先から頭のてっぺんまで駆け上がってくる。それに気づかないふりをして、吉良は廊下を歩き始めた。

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