私たちが宿泊している邸宅に戻って来たころには、空は夕焼け色に染まっていた。
それぞれの部屋に戻るために、それまでずっと繋いでいた手をアレク様が離した。
初めはためらっていたのに、いつの間にか手をつなぐことが当たり前のように感じていた。
アレク様の手は大きくて温かい。部屋に戻ってからも、私は繋いでいた右手をジッとみつめてしまっていた。
アレク様の婚約者のふりをするのが私の役目で、そんな私をアレク様は大切に扱ってくれる。
それがとても嬉しい。アレク様はこのままの私で良いと言ってくれる。でも、いつかアレク様のことを一人の男性として見てほしい、とも言っていた。
もしかして、アレク様は私のことを聖女ではなく、一人の女性として見てくれているのかもしれない。
だとしたら、私はどうしたいのかしら?
「エステル様」
キリアに遠慮がちに声をかけられて、私はハッと我に返った。見つめていた右手からあわてて視線を外す。
苦しそうな表情を浮かべたキリアは「大変申し訳ありませんでした」と私に向かって深く頭を下げた。
「急にどうしたの?」
「エステル様をお守りするのが私の役目なのに、エステル様に怪しい男を近づけてしまいました」
「あっ、そんなこともあったわね?」
市場でフードを深くかぶった怪しい人にさわられそうになっていたらしい。私はそのことに気がついてすらいなかったので、よくわからないけど。
そのあとが楽しすぎてすっかり忘れてしまっていた。
「閣下がエステル様を守ってくださらなければ、どうなっていたのか……。護衛騎士として恥じております」
気にしなくていいですよ、と声をかけようとして私はやめた。
キリアは自身の仕事に誇りを持っている。
私だってアレク様の婚約者のふりで失敗したときに『気にしなくていい』と言われても、少しも嬉しくない。
だったら――。
「こんなときもありますよ。次からしっかり守ってね。頼りにしています」
「はい!」
そう答えたキリアの瞳は真剣そのものだった。
でもそっか。護衛対象の私があちらこちらに移動したら、護衛をしてくれている騎士たちが大変なのよね。
明日はアレク様と王立図書館に行こうと思っていた。でももしかすると、どこにも行かずに舞踏会の日まで大人しくしておいたほうがいいのかも?
私がそんなことを考えていると、扉がノックされる。すぐにキリアが対応してくれた。
「エステル様、閣下とカーニャ国の第六王子殿下がいらっしゃいました。入っていただいても良いでしょうか?」
「え? もちろん、いいけど……」
アレク様とフィン殿下がそろって私に会いに来るなんて、何かあったのかしら?
室内に招き入れた二人は、すぐに本題に入った。先に話し始めたのはフィン殿下だった。
「エステル、明日図書館に行くんですよね?」
「はい。その予定なのですが……」
「市場で怪しい男に会ったと聞いたのですが、大丈夫でしたか?」
フィン殿下は、アレク様から話を聞いたようだ。
「大丈夫です。アレク様が守ってくださいましたから」
「なら良かったです。念のため邸宅の警備を強化しました」
なんだか
やっぱり図書館には行かないと言ったほうが良いみたい。
「あの、殿下。図書館には……」
「行きたいんだろう?」
私の言葉をさえぎったのは、予想外にアレク様だった。
「行きたいか行きたくないかと聞かれれば、行ってみたいです。でも、人に迷惑をかけてまでは行きたいとは思えなくて……」
そういうことを伝えると、アレク様はポンポンと私の頭をなでた。
「そのことを今、殿下に相談していたんだ。広い図書館内をまるまる警備するわけにはいかない。あと本棚などの視界を遮るものが多い場所では不審者を見逃がしやすいからな」
「やっぱり……」
行かないほうがいいよね? アレク様もきっとそう思っていると思ったのに。
「そこで、図書館が開く前の早朝に貸し切ることにした」
「……貸し切り?」
予想外の言葉に私はポカンと口を開けてしまう。
「ああ、俺たち以外に人がいなければ警備もしやすいからな」
「えっと、そういうことじゃなくて。そこまでしていただかなくても」
フィン殿下は「実は、僕が良く使っている手でして」と恥ずかしそうに頬を染めた。
「だから、遠慮しなくていいですよ」
「そうだ。エステルはやりたいことをやればいい。図書館には行きたいんだろう?」
私はためらったあとにコクリとうなずく。
「なら行こう」
「はい!」