今晩泊まる場所は、小さな村にひとつだけある宿だった。
公爵邸があるフリーベイン領の中心部とは違い、村には家が十軒ほどしかない。村の周りには広大な小麦畑が広がっていた。
豊かに実る垂れた穂を見て、私は改めてフリーベイン領の豊かさに気がついた。
前にアレク様が聖女の報酬として金貨十袋くれようとしたけど、そんなことができるくらい公爵領は豊かなのね。
アレク様にエスコートされながら宿に入ると、若い夫婦が明るく出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました!」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
アレク様と私はすぐに部屋へと案内される。
「せまいところですが、どうぞごゆっくり」
部屋の中にはベッドが二つ並んでいた。もう用は済んだとばかりに部屋から去ろうとしていた若夫婦をアレク様が呼び止める。
「亭主、部屋は二つ頼んでおいたはずだが?」
「はい、こちらは領主様ご夫婦のお部屋です! 隣にお付きの人用の部屋を準備させていただきました」
夫婦? 私がアレク様を見ると、アレク様は「すまない手違いがあったようだ」と謝ってくれた。
「俺たちは夫婦ではない。その」
言葉につまったアレク様の代わりに私が「婚約者です」とお伝えする。
宿の若夫婦は首をかしげた。
「どう違うんで?」
「俺たちは、また結婚していないんだ。同じ部屋で寝るわけにはいかない。この部屋にはエステルとその護衛が宿泊させてもらう。俺は別の部屋に案内してくれ」
「は、はい……?」
その顔には貴族さまの考えはよくわからないと書かれている。
そうよね、この国の平民には婚約制度はないものね。
それでも若夫婦は、すぐに笑みを浮かべると「では、領主様はこちらへ」とアレク様を別の部屋に案内しはじめた。
エスコートのためにふれていたアレク様の腕が私から離れていく。
「あっ」
何を思ったのか私はとっさにその腕をつかんでしまった。
振り返ったアレク様の瞳は大きく見開かれている。
「あの、さっきは弟を思い出しましたなんて、失礼なことを言ってすみません!」
「いや」
小さく首をふったアレク様は、後ろに付き従っていた一人の騎士とキリアに視線を送った。
「エステルと少し話してくる。俺の部屋の場所を聞いておいてくれ」
「はい」
「キリアは席をはずしてくれ」
「はい!」
騎士とキリアは素早く動き、その場から去っていく。
「エステル、いいだろうか?」
「は、はい」
立ち話もなんなので部屋の中に入ると、木でできた小さなテーブルと椅子があったので腰をおろした。
「先ほどの話だが、あなたが謝る必要はない」
馬車から降りるときはそらされていた視線が、今は私に向いている。そのことに私はホッと胸をなでおろした。
「でも、アレク様のことを弟と重ねるなんて……」
「正直にいうと、少しだけ落ち込んだ」
「す、すみません!」
怒られても仕方ないのに、アレク様の口元には笑みが浮かんでいる。
「だが、考えてみれば、あなたにとって家族は何よりも大切なものなのだろう? それこそ、自身を犠牲にしても守りたいほどに」
私はコクリとうなずいた。
「ならば、その家族を重ねられることはとても名誉なことなのかもしれない、と馬車の中で考えていたんだ」
「名誉?」
「そうだ。あなたの家族のように、いつか俺にも気をゆるしてほしいと思っていたから」
「アレク様……」
アレク様のそばは居心地がよすぎて困ってしまう。
今だってアレク様の落ち着いた声と、その温かい眼差しが心地よくて仕方ない。
「エステル。今は仲間でも主従関係でも、弟でもかまわない。だがいつか、俺のことを一人の男として見てくれると嬉しい」
アレク様を一人の男性として?
「それって……」
うまく思考がまとまらない私の頭をアレク様の大きな手がなでた。
「急がなくていい。俺もそうだが、エステルもきっとこれまで自分のことを考える余裕がなかったのだと思う。だから、少しずつでいい。あなたの好きなことをしていってほしい」
「私の、好きなことを」
フリーベイン領にいるかぎり、実家のことは心配いらない。そして、私は聖女の仕事も必要最低限しかする必要がない。
そっか、私はもう好きにしていいんだわ。
聖女の祈りは強制ではないし、私が浄化しなくてもフリーベイン領はアレク様や騎士団のみんなに守られている。
ここでは、私は自分の意思で決めたことを、自分のためだけにしてもいいのね。
たしかに聖女に自由はなかったけど、私は自分のことをかわいそうだなんて思わない。だって、今までもやりたいようにやってきたから。
でも、もう一人で頑張らなくていいのだと思うと、ふいに涙がにじんだ。
「アレク様……ありがとうございます」
お礼を言うとボロッと涙がこぼれてしまう。
実家では頼りがいのある姉でいたかったから決して泣かなかった。聖女になってからは、浄化することに必死で涙なんて流すヒマがなかった。
ここでは泣くのも笑うのも、何をするのも自由。
だったら私はやっぱりアレク様のお役に立ちたい。
そう伝えるとアレク様は少し困ったように笑った。
「もう十分だ」
「ぜんぜんですよ!」
アレク様の本当の婚約者が決まるまでは、しっかりと婚約者のふりをしたい。
そう思った私は、アレク様の本当の婚約者の女性を想像してみた。
公爵家にふさわしい家柄で、すごく美人で優しくって……。
そんな理想の女性にアレク様が優しく微笑みかける様子を思い浮かべて私の胸が少しだけ痛んだ。
*
アレク様との馬車の旅は楽しくて、あっという間に隣国カーニャにたどり着いた。
文化が違うせいか風にのって運ばれてくる香辛料の香りに異国を感じる。
私たちは舞踏会が開催される間、カーニャ国側が用意した宿泊施設に滞在することになっていた。
宿泊施設と言っても宿のようなものではなく、邸宅をまるまる貸してくれていた。それだけでも、いかに隣国がフリーベイン領を重要視しているかがわかる。
アレク様にエスコートされながら、煌びやかな邸宅に足を踏み入れた私は「わぁ」と感嘆のため息を漏らした。
「すごいですね!」
「ああ、フリーベインはカーニャと物流のやり取りがあってな」
「なるほど」
カーニャにとってフリーベインは仲良くしておきたい相手なのね。
「公爵様はこちらのお部屋に。婚約者エステル様のお部屋はこちらです」
使用人たちはみんな丁寧に接してくれる。
アレク様と別れて、案内された部屋も煌びやかだった。壁には銀髪家族の大きな絵が飾られている。
「これは?」
案内してくれたメイドに訪ねると「カーニャ王家を描いたものです」と教えてくれた。
「カーニャ王家は、みんな銀髪なのですね」
「はい」
部屋に荷物を運ぶ騎士たちの間をぬって、キリアが速足に近づいてくる。
「エステル様!」
「そんなにあわててどうしたんですか?」
「エステル様にどうしてもお会いしたいという者が訪ねてきています。ついたばかりなので追い返したいのですが、そうもいかず――」
キリアの言葉をさえぎり、優雅な足取りで一人の少年と、その護衛らしき男性が部屋に入ってきた。少年の髪は銀色に輝いていた。