ガタゴトとゆれる馬車の中で、俺はエステルと向かい合って座っていた。
先ほどは予想外のことで動揺してしまったが、よく考えるとこれは誤解を解く良い機会だ。
婚約者のふりではなく、正式に婚約者になってもらうにはどうしたらいいのか?
わからないが、有難いことにこれから二人きりの時間が十分ある。
エステルに視線を向けると、彼女は窓の外を見ながら口元に笑みを浮かべていた。楽しそうな彼女の横顔に見惚れてしまう。
「アレク様、あそこでりんごを売っていますよ!」
そう言いながらライトグリーンの瞳を嬉しそうに細めた。
「エステルはりんごが食べたいのか? ならすぐに馬車をとめて買いに――」
立ち上がろうとする俺を、エステルはあわてて止める。
「あっいえ、そうではなく! お子さんがお店のお手伝いをしていてえらいなって思ったんです」
言われて窓の外を見てみると、通りすぎてもう小さくなっていたが、りんご売りの親子がいた。
「子どもが好きなのか?」
俺の質問にエステルは、「好きですよ」と微笑む。
「私、妹と弟がいるんです。だから小さな子の面倒を見るのは得意なんです」
「そうなのか。妹と弟は可愛いか?」
「はい! 生意気なときもありますけど、すごく可愛いです。私が神殿に行って聖女になると決めたとき、二人とも行かないでって……すごく、泣いちゃって……」
そういったエステルの瞳に、一瞬、寂しさがよぎりすぐに消える。
「兄弟仲が良いんです。今でもずっと手紙のやりとりをしていますよ。二人とも大きくなっただろうなぁ」
「やりとりは手紙だけなのか? それは、聖女になってから家族には会っていないということか?」
エステルは大きく目を見開いた。
「あっはい、聖女は許可なく神殿から出ることを許されていなかったので」
「……は? それは神殿に閉じ込められていたということか?」
「閉じ込め? いえ、そういうわけではないです。ただ、毎日休まず祈らないといけなかったので、自由な時間が取れなくて」
「なんだ、それは」
それが事実なら、王都の安全をたった一人の聖女に任せきりにしていたことになる。しかも、聖女からすべての自由を奪って。
「前に聞いた話では、あなたは神殿で邪気食いと呼ばれ遠巻きにされていたと言っていたな?」
「はい」
「俺は、聖女は神殿の最重要人物であり、王族のように丁重に扱われていると聞いていたのだが」
「えっと……」
エステルの神殿での暮らしぶりを聞くと、俺はさらに驚いた。
「聖女の自室がベッドと簡易クローゼットが置かれただけの部屋だったと?」
「はい。でも、寝るだけなので特に問題ありませんでしたよ」
その口ぶりでは、寝るくらいしかできないような部屋だったらしい。
「それは、今の部屋よりせまかったのか?」
エステルには、公爵邸の中でも格別に良い部屋を使ってもらっているが、国を支える聖女ならそれ以上の暮らしをしていて当然だ。
「今の部屋って、公爵邸のお部屋ですか?」
「そうだ」
「ぜんぜん違いますよ! 今のお部屋は、すっごく広いですし、お姫様が住むところみたいにきれいだし、ベッドがフカフカでびっくりしました!」
神殿の部屋はせまくベッドは硬かったようだ。
エステルは、そんな暮らしを
グツグツと
「あの、アレク様……聖女らしくなくてガッカリしましたか?」
エステルの瞳が不安そうにゆれている。俺は冷静になるために息をはいた。
「ガッカリなどしないが怒っている。でも、それはあなたにではなく、あなたを不当に扱っていた神殿や王族にだ。あなたはもっと尊重されるべきだ」
「アレク様……」
やはりエステルを王都に帰すわけにはいかない。今さらながらに聖女の力を頼ろうと王族や神殿から使者が来たが、すべて追い返して正解だった。
王都は今、頻繁に魔物に襲われているが不思議なことに民に被害が出ていないそうだ。魔物たちは
聖女を追い出した天罰だと言いたいが、この件についても隣国で何かわかればいいのだが。
「エステル。あなたをもう二度とそんな目にはあわせない。だから……ずっと俺の側にいてほしい」
ニッコリと微笑んだエステルは「はい」と言ってくれた。そして、少しだけ頬を赤らめる。
「嬉しいです。実は、私もキリアや他のみんなのように、アレク様のお役に立ちたいって思っていたんです!」
「俺の役に?」
なんだか嫌な予感がする。
「エステル。念のために確認するが、それは俺の配下になりたいという意味か?」
「はい、そうです!」
ものすごく良いお返事をされてしまった。
いつの間にか俺たちの関係が黒文様仲間から、主従関係になってしまっている。仲間から主従って距離が遠ざかってないか?
そういう意味ではないとすぐに否定しようとしたが、エステルが小さくあくびをかみ殺したので俺は言葉を飲み込んだ。
「眠いのか?」
「すみません! 実は、昨晩緊張してあまり眠れなくて……」
「なら眠るといい」
「でも!」
「目的地まで遠い。眠れるときに眠って体力を温存することも大切だ」
「そうですね。ではお言葉に甘えて……ありがとうございます」
本当に眠かったようで目を閉じたエステルからは、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。
女性の寝顔を見るのは失礼なことのような気がして、あまり見ないようにしていたが、ガタッと馬車がゆれた拍子にエステルの身体が傾いた。あわてて右腕をのばしてエステルの顔を支える。
これだけゆれたのに、エステルは起きる気配がない。
俺の右手を支えにして器用に眠っている。その無防備な寝顔に見惚れつつも俺はあせった。
ど、どうすればいいんだ?
このままずっと右手でエステルの顔だけを支え続けるわけにもいかない。かといって眠っているエステルを起こしたくもない。
悩んだ結果、俺はエステルを起こしてしまわないように慎重に向かいの席に移動した。そして、エステルの顔を俺の肩に寄りかからせる。
頭をぶつけては危ないからな。
そう自分に言い聞かせながら、俺はつかの間の幸せをかみしめた。