ダンスの練習をしたいと言ったエステルのために、ダンスの講師を公爵邸に呼び寄せた。
「お久しぶりです。閣下」
俺の記憶よりいくぶんか年を取ったベレッタが、優雅に淑女の
「久しいなベレッタ」
ベレッタは母の友人であり、俺のダンスの先生でもあった。優しくときには厳しい良い先生だったように思う。
両親が亡くなり、まだ子どもだった俺が公爵位を継ぐと、ダンスの練習などする暇がなくなった。
父に代わり騎士団を率いて魔物退治をつづけているうちに、体に不気味な黒文様が浮き上がってきた。それからは、人前に出ることをさけていたので、ダンスなんてエステルに言われるまで存在自体を忘れていた。
ベレッタに会うのは、両親の葬式以来だ。
「ご立派になられて……」
そういったベレッタの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ベレッタ、またダンスを教えてほしいのだが」
「もちろんです! 婚約者様と三か月後に開催される舞踏会に参加するのだとうかがっております」
「ああ、婚約者はエステルという。それで――」
「エステル様ですね! 王都の神殿にお仕えしていた聖女様だとお聞きしております! エステル様はどちらに?」
瞳を輝かせるベレッタから、俺はそっと視線をそらした。
「その件だが、ダンスは別々に教えてくれないだろうか?」
不思議そうなベレッタ。
ダンスなんてもう何年も踊っていない。まともに踊れる気がしない。
「その……エステルに情けないところを見せたくなくて、だな」
恥を忍んで頼むと、ベレッタの瞳から涙がボロボロとこぼれた。
「べ、ベレッタ!?」
ふ、ふふ、と笑ったベレッタは人差し指で涙をぬぐう。
「閣下は素敵な方に出会えたのですね」
「ああ、俺にはもったいないくらいの婚約者なんだ」
正確には、エステルは婚約者のふりをしてくれているのだが。そのことを思いだすと、自分の情けなさに気が滅入るのであまり考えないようにしている。
今思えば、エステルに初めて会ったあの夜、エステルに『私たち、一緒ですね!』と微笑みかけられた瞬間、俺はエステルに心を奪われていた。
そのあともエステルを知れば知るほど彼女に惹かれていくのがわかった。
でも、わかったものの、どうしたらいいのかはわからなかった。
この数年間、魔物退治と公爵の仕事のくり返しで、まさか自分が女性に好意を持つ日がくるなんて考えたこともない。
使用人達のすすめで、エステルにいろんな贈り物をしたが、喜んでもらえているのだろうか?
エステルの護衛キリアからは、「エステル様は、閣下のことを黒文様仲間のお友達だと思われているようです」と報告が上がっている。
周囲の協力もあり、なんとか告白したが、それもうまく伝わらず、エステルは婚約者のふりをしてくれることになってしまった。
一緒に舞踏会にいってくれるそうだ。ならば、せめてダンスくらいまともに踊れるようになって、エステルに良いところを見せたい。
そうベレッタに伝えると、なんだか生温かい目を向けられてしまう。最近、俺の周りにいる人たちは、みんなこんな目をしている。
「閣下の事情はわかりました。優雅なダンス、完璧なリードでエステル様に振り向いていただきましょう!」
「ああ、頼んだぞ」
*
そうして、エステルと別々のダンスレッスンを受けた一か月後。
なんとか俺のダンスが形になり、エステルと一緒にダンスレッスンをすることになった。
ダンスホールに現れたエステルの足取りは軽い。彼女が歩くたびに、黄色のスカートがフワフワとゆれる。
そのドレスは、エステルのブラウンの髪に良く似合うと思って贈ったドレスだった。
「あっ、アレク様」
俺の名前を呼びながら、まるでひまわりのように明るい笑みを浮かべる。
「……美しい」
ボソッとつぶやいた俺を、ベレッタが肘でつついた。
そうだった。女性をほめるときは、相手の目を見て大きな声で伝えるのですよ、と言われていた。
俺はエステルの側に行くと、その瞳をまっすぐ見つめる。
初夏のみずみずしい若葉のような瞳がキラキラと輝いている。
「とても美しい」
エステルの白いほほに、少しだけ赤みがさした。
「嬉しいです。アレク様もとっても素敵ですね!」
「あ、ああ」
使用人たちに、朝からあーだこーだ言われながら、服を選んだかいがあった。
それ以上何を話していいのかわからず困っていると、ベレッタがパンパンと手を叩く。
「では、さっそくお二人で合わせて踊ってみましょう」
「はい!」
元気なお返事をするエステル。
ダンスのために手を取り合うと、それだけで心臓が高鳴った。
エステルは小声で「緊張しますね」とささやき微笑む。
「ああ」
俺よりは緊張していなさそうに見えるが。
曲の演奏が始まると、エステルの表情が変わる。
いつもにこにこしているエステルが真剣なまなざしになる。見たことのない表情に見惚れていると、ベレッタに「ダンスに集中!」と怒られた。
そうだった、エステルに良いところを見せないと。
体に叩きこんだステップは、もう無意識に再現できる。練習を繰り返すうちにリードもベレッタにほめてもらえた。
ふと、エステルと視線があった。
真剣だった表情がゆるみ、愛らしい笑みが浮かぶ。
「アレク様、私、楽しいです」
「ああ、俺も楽しい」
楽しそうに笑ってくれるエステルを見ているうちに、俺のほほも自然とゆるんでいた。
楽しい。
最近、生きることが、楽しくて仕方ない。
公爵位の重圧と、命がけの魔物との戦いの中で心がすり減り、楽しいだなんて感情を長い間忘れていた。
エステル、あなたをだれよりも幸せにしたい。
それが最近できた、俺の願いだった。