ぐじぐじと顔をこすった玲於奈は、明るい声で僕たちに命令する。
「さ、それじゃ、ターミナル展望デッキで、最後の見送りに行くわよっ」
「そうだね。それじゃあ皆さん、いきま――」
「あっ、と。ごめん、俺らはパスするわ。ね、石神さん、馬呉さん」」
「え? いや、でもみんなで――「――おお、そうだな。俺らはこれで失礼するわ」」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。何であんたたちはそんな薄じょ――「いやー、自分たちはお先に帰らせてもらうっす」」
石神さんは、美雄の方を叩いて肩を組んだ。
「なかなか粋じゃねえか? ん?」
「別に……特に深い意味はないっすよ」
「わかってるって。お前もなかなかの“マチョ”なんだな。見直したぜ。おっしゃ! せっかくここまで来たんだからよ、ナンパしようぜナンパ!」
「い、いいっすね。アニキとナンパなんて久しぶりっすね」
「いや俺は別に……ったく、しょうがないっすね」
美雄は苦笑し、髪をかきあげた。
「そんじゃな玲、玲於奈、また学校でな」「それじゃあっす!」「“アディオス”、またな」
三人とも……行っちゃった……。
「……」「……」
な、なんか気まずいな……。
「えと……あの、玲於――「行くわよ」」
あ、ちょ、え? 明るく微笑んだ玲於奈が、僕の手をやさしくつかんだ。
「行くわよ、玲。ここはリングの上じゃないわ。あたし達が行かなかったら、お兄ちゃんたった一人になっちゃうじゃない。ね? だから見送るの。二人で」
柔らかく微笑む玲於奈の手は、僕を力強く引っ張った。
――
夏の湿った風が僕たちに吹き付ける。
――ゴオオォォ――ォン――
彼方に見える富士山が突き抜けるような青空に美しい姿を見せる。
そして天に突き刺さるように真っ直ぐのびた飛行機雲。
その雲の先にわずかに見える飛行機は拳聖さんを乗せて福岡へと飛び立つ。
拳聖さんは福岡からホノルルにトランジット、そしてネバダ州へ。
「普通に成田空港まで行けばいいのにね。お兄ちゃん」
「そうだね。けど、なんとなくわかる気がする。だって――」
太陽の光を受けて輝く太平洋。
美しい曲線を描き、白雪を頂く富士の峰。
そして――
「――玲於奈のいる静岡のすべてを、しっかり目に焼き付けながら飛び立ちたかったんだ」
木製のベンチに玲於奈は座り、右手で太陽をさえぎりながら空を仰ぐ。
僕もその横に腰を降ろした。
すると、玲於奈は背中に背負ったリュックサックを下ろし、中からなにやら古びた冊子を取り出して僕に手渡した。
「前に言ってたでしょ? ジョー・フレージャーのこと教えてあげるって。ボクシングの歴史の本よ。少しは勉強しなさい」
ぱらぱらと冊子をめくると、付箋を張ったところに一人のアフリカ系ボクサーの姿。
がっしりとしたあご、盛り上がった筋肉、その精神力をダイレクトに示す鋭い眼光。
そっか、この人が“後退のネジをはずした男”か……。
「“グレイテスト”モハメド・アリに初めて土をつけて、そして最も苦しめた男よ」
へえー、それ以前にも、たくさんボクサーが……って――
「!? こ、この二人って?」
ヘビー級ボクシングの歴史の最初を飾る、最初の世界チャンピオン、“ビッグ・ジョン”ジョン.L.サリバン。
そのサリバンを破った、世界初のアウトボクサー、“戦う銀行員”ジェームズ.J.コーベット。
Lさん……Jさん……。
「え?」
い、い、い、今写真の二人が、僕にウィンクを――
「? どうしたのよ、そんな昼間に幽霊に会ったみたいな顔しちゃって」
「ゆ、幽霊!? い、いや、幽霊なんているわけないでしょっ!? あ、あ、ありがとねっ!」
まさか、ね……。けど、もしかして……。
“絶対に、振り返ってはいけません。さもなくば――”“君は、大切なものを失うだろう”
ボクシング部は復活した。
けど、僕の手元からメダル消え、拳聖さんは僕たちの前から去った。
再びリングに立てるかどうかも未知数なまま。
「――ねえ玲於奈」
けど、答えなんか、まだ出ていないんだ。
そうですよね、Lさん、Jさん。
僕がベンチを立つと、つられたように玲於奈も立った。
「お願いがあるんだ」
僕たちを導いてくれたメダルは、元の場所に、あるべきところに帰って行っただけなんだ。
今度は僕が、僕自身の力で――
「僕を、インターハイに連れてってよ」
「……本当にあんたはいつまでたっても女々しいんだから……」
「え? ってあいたっ!」
「そういう時は“玲於奈をインターハイに連れて行くよ”って言うもんでしょ!?」
「あ……ご、ごめん……」
「ったく……そんなんだからあんたはいつまでたってもよわっちいまんまなのよ……」
ははは……何も言い返せないや。けどね――
「けど、今の僕にとっての、まじりっけのない本心なんだ」
僕は、真っ直ぐに玲於奈の目を見る。
玲於奈も、僕の視線を正面から受け止める。
「そういうの、対抗戦勝ったら、って約束じゃなかったっけ」
「あはっ、そうだね。確かにこれはルール違反なのかもしれないね」
けど――
「けど次は絶対に勝つから。だから……だから今は誰よりもずるい僕になる。だめかな?」
「ずるいけど――」
玲於奈は、ふるふると首を振る。
「――だめじゃないよ」
僕は拳聖さんがやったみたいに、玲於奈の髪の毛に指を絡ませた。
「あたし、すっごいわがままだよ?」
「知ってる」
「世界で一番かわいい十五歳だから、嫉妬されるよ?」
「覚悟はできてる」
「胸は……大器晩成型よ?」
たぶん……晩成すらしないと思うけど――
「かまわない」
「美人だけど意地っ張りで乱暴で、家事とかそういう女の子らしいスキル一切なくて、実は結構嫉妬深いから、死ぬほど苦労するよ?」
「玲於奈の“試練”になら、死ぬ気にだってなれるから」
「それに……あたしのこころの中にはまだお兄ちゃんがいるよ?」
玲於奈はうつむき、僕のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。
「それでもいいの? 勝てる自信、ある?」
大丈夫だよ。だって――
「僕だって拳聖さんが大好きだから。だから、心の中の拳聖さんごと、僕がもらうもん」
ちょっと、っていうか、たまに手が付けられないくらいに強暴だけど、君はいつも、僕に“試練”を与えて導いてくれる。あの日僕のもとに空から舞い降りた――
「――君は、僕の“天使”なんだ」
拳聖さんは、リングの上から永久に去ってしまうのかもしれない。
そして僕は、“シュガー”にはなれないのかもしれない。
けど、僕には――
「――僕には、君がいる」
拳聖さんが、君を僕に残してくれたから。
君が僕のそばにいてくれれば――
「――僕の心の中にいてくれれば、僕は強くなれるんだ」
玲於奈は、僕の胸元に顔をうずめた。
「玲於奈……僕は君が――」
ツン
「「ん?」」
「何か胸ポケットに入ってるよ?」
胸ポケット?
あ、そういえばさっき――
「さっきね、メダルの代わりに拳聖さんが何か入れて――」
「お兄ちゃんが?」
「うん。玲於奈と仲良くしろって、絶対役に立つからって――」
……なにこれ? 確かこれ、前も拳聖さんが――
「最ッ低!」
あだっ!?
「あ、あ、あんたたち何考えてんの? な、な、何でいきなり、そ、そ、そ、そんなもん取り出して平然としてられるの? い、い、い、いくらなんでも、じゅ、順序ってもんがあるでしょ?」
「そ、そ、そっちこそいきなりなんだよ!? なんでいきなり“右ストレート”なのさ!?」
ゴニョゴニョ「ま、まあ、使ってみたいっていうんなら、つ、ツカワセテアゲテモ……」
「だ、大体それなんなんだよっ!? 何でそれを見せただけで玲於奈は怒り狂うのさっ!?」
「は、はあ? あ、あんたマジの本気で言ってんの? 学校で習ったでしょ?」
「な、習ったって何をさ!? だったらさっさと教えてよ!」
「そ、それは……コ、コ、コン、コンド……って言わせるんじゃないわよこのバカぁあああああっ! あんたのガキさ加減には怒りを通り越して哀れみすら感じるレベルよ!」
「ガ、ガキ!? へ、部屋に帰ってきてもあんな短いスカートでパンツちらちら見せながら気にしない玲於奈に言われたくな――」
「はあああああ!? あんたあたしのパンツ見てでやらしいことしてたんじゃないの? ま、まさかあんた、最初からあたしの体目当てで……」
「ふ、不可抗力だよっ! そんなものに興味はないしっ!」
「“そんなもの”!? この世界一の美少女の体を“そんなもの”!? 結局あんたも女を胸でしか判断できないくだらない男だったってわけ!?」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないよっ!」
「ああっ! そういえばあんた、初めてあたしにあったときあたしのパンツの中に顔をうずめてたじゃないっ! やっぱりあんたってむっつりスケベの変態よっ!」
「そ、それだって不可抗力じゃないかっ! 勝手に君が空から降ってきたのに、僕が巻き込まれただけなんだよっ!?」
「あんたあたしを“天使”って言ったじゃない! 天使は空から降ってくるものなのよっ!」
ああいえばこういう……ほんとにもうっ!
「ああもうっ! 何で僕は君みたいな子を好きになっちゃったんだよっ!」
「は、はにゃっ? な、何?」
周りの人たちがいっせいに注目してるけど!
「ああそうだよっ! 僕は君のことが大好きだよ! 悪い!?」
みんな笑いながら、なんかほほえましい感じで見てるけどっ!
「君のことが心のそこから! 自分でもあきれるくらい大好きだよっ!」
気持ちはもう止められないんだっ!
「だから玲於奈! どこにも行くなっ! 乱暴でわがままで意地っ張りな君のこと丸ごと受け入れるから! だからいつまでも僕のそばにいろ!」
「あ、あ、あんたって奴は……あんたって奴はぁあああああっ!」
「ぐえっ……」
玲於奈は僕の胸倉を強引に掴み上げる。
また殴られる?
右ストレート!?
「本当にガキなんだからあっ!」
ほろ“苦い”結果で始まった、僕のボクサー人生だけど――
「目ェつぶりなさいっ!」
僕の唇に、そして舌に、今まで経験した事のないような、暖かく柔らかい感触――
「――ふわっ……」
“天使の右ストレート”は、とびきり“甘い”キスに姿をかえました。
ちょっと不安な僕と玲於奈のこれからを祝福するような、甘い甘いキスでした。