「いろいろ迷惑をかけたな」
シャープなシルエットのダークスーツとサングラス姿の拳聖さんは微笑んだ。
夏休みを目前に控えた七月半ば、清潔に近代的な富士山静岡空港の景色がそのサングラスに反射する。
「けど、なんだか胸のつかえが取れたような、すごくすっきりとした気分だ」
「さすがにみんなびっくりしてたぜ。左目が見えないこともそうだけどよ、その左目であの半田の野郎をノックアウトしちまったんだからな」
ハンチング帽を親指で押し上げた石神さんの顔には、陽気な笑顔が浮かんでいた。
「あたしはまだ許してないんだからね」
すねたようにして、玲於奈はぷいと顔を背けた。
「こんな大切なこと……妹のあたしにまで隠してたんだから」
「お前に言ったら、優しいお前は何があっても手術をしろって言うに決まってる」
そうだね。
強がりばかり口にするけど、本当はとても優しい玲於奈だから、拳聖さんは左目のことを言えなかったんだよ。
玲於奈が大学まで一貫の私立女子校に通う費用、拳聖さんにとっては、それが自分の左目よりも大切なんだ。
「それに――」
けどそれだけじゃない。
拳聖さんは玲於奈のツインテールのつややかな髪に指を絡ませた。
「お前がいつか、大切な誰かを見つけてお前の一生を捧げようと思ったとき、どこに出しても恥ずかしくない結婚式を上げてやりたくてな」
拳聖さんは、とびきり綺麗な玲於奈のウェディングドレスの姿が見たかったんだ。
「父さんと母さんとの約束だ。二人の残してくれたお金は、そのために使われるべきなんだ」
「バカ……。あたしの結婚なんて、どうだっていいのに……」
玲於奈は恥ずかしそうに呟いた後、拳聖さんの指に自分の指を絡ませた。
「け、けど、結果それがよかったんっすよ!」
あの後拳聖さんは、なぜリングを去らねばならなかったか、そして左目のことを観衆に向かって話した。
するとどこからともなく拳聖さんの左目のための募金をしようという声が上がった。
ううん、会場内だけじゃない。
佐山先生は、全国のボクシング関係者に話を通してくれた。
その結果、たくさんの寄付が全国から寄せられた。
あ、忘れてた。
「あの、拳聖さん。半田さんが見せろって」
僕は拳聖さんにスマホの画面を差し出した。
「動画送ってきたんですよ」
“へっ、ざまあみやがれ! お前みたいなやつが日本からいなくなるなんて清々するわ!”
画面の中では、舌を出して顔をしかめる半田さんの顔があった。
“一生アメリカからかえってくるんじゃねえぞ!? ばァあああああか!”
「はは……だそうです。とにかく見せろってあの人うるさいものでして……ははは……」
「あいつらしいな」
拳聖さんはポケットに手を突っ込み、ふっと笑った。
「まあ口ではあんなことを言っているがな、今回のお前の渡米、半田君とそのご家族が、一番骨を折ってくれたんだそうだ」
そう、一番多くの寄付をしてくれたのは、誰あろう半田さんとそのご家族だった。
半田さんの家は証券会社の重役で、多額の出資とアメリカの大学病院での手術の手続きをしてくれた。
ボクシングのメッカ、ラスベガスのあるネバダ州の大学病院で、拳聖さんは手術をすることになった。
拳聖さんは向こうでリハビリを行いながら語学学校へ通い、経過によってはハイスクール、そしてネバダ大学でボクシングを続けられることになった。
「それより、また今回も迷惑かけちまったな、イシさん」
結果的に拳聖さんは定禅寺西を中退することになった。
石切山先生は、そのためにまたいろんなところに頭下げて回ってる。
けど――
「何を言うんだ」
石切山先生のこんなに明るい笑顔を見たのは、僕は初めてかもしれない。
「お前は俺の誘いに乗って、この定禅寺西に来てくれたんだ。俺のほうこそ礼を言うほかない」
石切山先生は、拳聖さんの右手に力強く応えた。
「待ってるよ、“シュガー”の名前がこの日本まで伝わってくるのをな」
「おうおっさん、もう行くのかよ。薄情な奴だな」
「お前みたいながさつなバカには、一生わからんだろうよ」
「殺すぞデブ!」
「ア、アニキ落ち着いて……」
馬呉さんに押さえつけられる石神さんを尻目に
「またな」
その一言だけを残してあっさりと姿を消した。
「けっあのデブ、格好付けやがって。泣き顔見られるのが恥ずかしいだけのくせしてよ」
「ま、またアニキったらそういうことを……」
「けど馬呉さん、石神さんらしいじゃないっすか」
美雄は、ポケットに手を突っ込んだまま言った。
「自分だって寂しいくせに、そういう強がりを口にするところとか」
「ほっとけ!」
けど、それは石神さんだけじゃない。
僕たちみんなの憧れの的だった拳聖さんがアメリカへ旅立ってしまう、口には出さないけれど、僕たちはみんな胸に寂しさを抱えていた。
それに拳聖さんの手術には、かなりのリスクが伴う。
手術の結果と術後の経過によっては完治せず、もう二度とリングに――って、わっ!?
「そんな顔するんじゃねえよ」
僕の頭をわしわしとなでたのは、石神さんだった。
「拳聖さんよ、こういうしみったれた空気、やっぱ俺らにゃ似あわねえよ。だろ?」
石神さんの言葉に、フッ、拳聖さんは穏やかに笑った。
「そうだな」
「行けよ、シュガー、“アスカール”。どこにいようが、あんたはずっとあんたのままさ」
「お前もな……拳次郎……“エストマーゴ・デ・ピエドラ”。“アスタ・ラ・ヴィスタ”……」
「へっ……たくよぉ……最後の最後までかっこつけすぎなんだよ……」
かすれていくその声をごまかすように、ふたりは男同士の抱擁を交わした。
「ううう……け……拳聖さん……うっ、うっ……」
「自信を持て。胸を張れ。お前はまだまだ強くなれる。、ミドル級代表、“ザ・ブレード”」
「ふぁ、ふぁいっ!」
「この一ヶ月間、俺にとっての宝物です。拳聖さん」
「悠瀬、お前の才能、まだまだ磨きだしたばかりだ。空手をベースにボクシングの技術を接木していけば、お前はオンリーワンになれる。お前の成長を、楽しみにしてるよ」
「お兄ちゃん……アメリカ行っても、金髪女なんかに引っかからないでね?」
二人の間に割り込んだ玲於奈は、まるで恋人のように拳聖さんの首に腕を絡める。
「アフリカ系もヒスパニックもアジア系も……誰にも引っかかっちゃだめなんだから」
切なく甘いささやきに、拳聖さんは苦笑する。
「玲於奈……もういい加減、俺から卒業しろよ」
「できるわけないじゃん……お兄ちゃんは……お兄ちゃんは――ボソッ「――お前にはほら……」――ふわっ、あんっ――」
口づけをするかのように、拳聖さんは玲於奈の耳に何事かをささやく。
「お兄ちゃんの……いじわるぅ……」
「玲――」
拳聖さんは、すっと僕の前に立った。
「なあ玲、ひとつ頼みがあるんだ」
「え? あ、はい」
「俺の渡したあのメダル、今もまだ持っているか」
「ええ。当然持ってます。ほら」
どんなときも肌身離さずポケットに入れたメダルを、拳聖さんに見せる。
すると拳聖さんは髪をかきあげ、一瞬の躊躇ののち口を開いた。
「このメダル、俺にもらえないだろうか」
「えっ?」
「こんなこと言うのは、ルール違反だってわかっている。けど、正直に言うよ。怖いんだ」
拳聖さんは、メダルを乗せた僕の手のひらに、その手のひらを重ねた。
「もうリングに立てないんじゃないか、それどころか、この左目がもう二度と見えなくなるんじゃないか、そんなことを考えると、足がすくむ。泣き言すら、口にしてしまいそうになる。だけど――」
拳聖さんはサングラスをはずすと、真っ直ぐに僕の目を見つめて言った。
「――だけど、お前が大切にしてくれたこのメダル。これがあれば、俺もお前みたいに、諦めずにいられるような気がするんだ」
このメダルは、僕にとっての支えだ。
このメダルが僕をここまで導いてくれた。
「だめかな」
何があったって、このメダルは手放さないって決めたんだ。
だけど――
「聞かないでくださいよ、そんなこと」
このメダルは、もう十分僕を支えてくれた。
だから今度は――
「きっとこのメダルは、拳聖さんの願いをかなえてくれます」
僕はメダルのリボンを取ると、それを拳聖さんの首にかけた。
「大切にしてください」
あっ……。
「ありがとうな」
拳聖さんは、優しく僕を抱きしめ、そのシャープな頬を僕の頬に当てた。
ボソリ「代わりにこれ――絶対役に立つからさ」
な、なにかを僕の胸ポケットに――
ボソリ「玲於奈をよろしくな」
……はっ?
「いやいやいやいや! え、えええええ?」
「ちょっとなによ。何顔真っ赤にしてそんなに慌ててんのよ」
「い、いや……なんでもない……です……」
「おうおう、お熱いこって」
石神さん、そんなにニヤニヤしないでくださいよ……は、恥ずかしいじゃないですか。
「それじゃあな、俺は行くよ」
拳聖さんは、サムソナイトのキャリーケースに指を掛けた。
「“アディオス”」「お、お、お、お元気で!」「いずれ、また」
「気をつけてね、お兄ちゃん」
玲於奈は再び拳聖さんにハグすると、名残惜しそうに体を離した。
「ああ。お前もな。それと玲――」
拳聖さんは、あのとびきり甘い笑顔を僕に向けてくれた。
「お前との出会い、神に感謝するよ」
「僕こそ! あの日の拳聖さんを、僕はずっと追い続けます! そして――」
あの日、栄光に包まれながら去ったあなたに、聞いて欲しい言葉があったんです。
「僕は、あなたみたいなボクサーになります! そしていつか……僕も“シュガー”って呼ばれるくらいすごいボクサーになります!」
「なれるよ、絶対。お前なら。“ブラウン・シュガー”」
拳聖さんは、人差し指でサングラスを押し上げた。
「それじゃあな」
春風のような余韻を残し、拳聖さんの姿はエスカレーターの奥へと消えて行った。