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第38話

 ニイッ、いつもの甘い微笑を浮かべ、まるで救い主のように恭しく両手を掲げた拳聖さんに、歓声は爆発した。

「うおー! なんだ今の!?」「なになに? パンチが体をすり抜けたの!?」「お、俺絶対もう“シュガー”がやられちまったかと思ったぜ!」

 カァン

「ストーップだストップ! 各自コーナーへもどれっ!」

 その歓声に我を取り戻したレフェリ-が、両者の間に割って入った。

 すると拳聖さんはレフェリーの陰でおどけた仕草を向ける。

「なんだこの野郎っ!」

 恐怖と半ばする混乱の中で、半田は拳聖さんに食って掛かる。

「やめたまえ! 失格にするぞ!」

 怒りに震える半田を尻目に、拳聖さんはゆっくりと青コーナーへ引き上げた。

――パンパンパパパン――シュガー――パンパンパパパン――シュガー――

「心地いいな」

 ストゥールに腰掛けうがいをすると、拳聖さんはあの甘い微笑を浮かべた。

「最高だ。今死んでしまったとしても、俺はきっと後悔しない」

「バカなこと言わないで!」

 濡れたタオルで汗を引く玲於奈の両目から、大粒の涙がこぼれた。

 そのタオルの下には、痛々しく晴れ上がった左目があった。

「ねえお兄ちゃん、もう棄権しよ?」

「なぜその必要がある? 確かに差し込まれていたが、クオリティー・ブローは――」

「――もうみんな知ってるんだから。お兄ちゃんの左目」

 その言葉に拳聖さんの表情は一瞬固まったが、すぐにとろけそうな微笑に変わり、そしてグローブに包まれた手は優しく玲於奈の髪の毛をなでた。

「そっか。知ってたのか。余計な気、使わせちまったな」

「お兄ちゃん、もう充分だよ。ね? だから、早く――」

「玲」

 拳聖さんは、あの見るだけで虫歯になっちゃいそうな、甘い笑いを僕に向けた。

「しっかりと、俺だけを見てくれているか」

「はい。 拳聖さんを……大好きな拳聖さんを、僕はずっと見ています」

「そいつは嬉しいな」

 そして、また玲於奈に向かってスウィートにささやいた。

「なあ玲於奈。玲と……お前が、玲於奈が俺を見ていてくれれば、俺は負けない」

「お兄ちゃん……」

「お前達がいてくれるから、俺は強くなれる」

「セコンドアウト」

 カァン

“第三、最終ラウンド”

「だめだよ、玲於奈」

 僕は、タオルを握り締める玲於奈の手に僕の手を重ねた。

「けど……けど……お兄ちゃん……お兄ちゃんが……」

 今まで見たことのない、取り乱したような表情の玲於奈。

つらいよね。けどね――

「ねえ玲於奈、拳聖さんの目を見て」

 玲於奈は、静かに顔を上げた。

「ね? 拳聖さんの目は、諦めちゃいないでしょ? ずたぼろにされたって、どんな惨めな状態に追い込まれたって、足掻いて足掻いて、勝利を掴むことだけは絶対に諦めていないんだ」

「玲……」

「ほら、玲於奈――」

 僕は玲於奈の手からタオルを奪うと、その左手に――

「え? これって……」

「このメダルはね、僕をここまで導いてくれたんだ」

 考えてみれば、すごく簡単なことだったんだ。

「僕は拳聖さんにあこがれて静岡に来て、そして玲於奈のおかげで、ほんのちょっとだけだけど強くなれたんだ」

 そう、きっと拳聖さんも――

「ボクサーは、心の中にいてくれる誰かと一緒にリングに上がるんだ。そしてその誰かが、ボクサーを強くしてくれるんだ」

 拳聖さんのメダルを乗せた玲於奈の左手に、僕はそっと右手を重ねた。

「だから僕たちは信じようよ。拳聖さんを」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を右手でぬぐい、玲於奈は僕の手を痛いくらいに握り返した。

 そして僕たちは、心からの願いをこのメダルに込めた。

「拳聖さんに」「お兄ちゃんに」

勝利を――

 リング上、半田がまた速射砲のようなジャブを繰り出す。

けど、拳聖さんは――

「うぉーすげー!」「マジか?」「さっきのラウンドとは全然ちげーよ!」

 あの長いリーチのジャブを、全て紙一重のところでかわしていた。

「うがあああああっ!」

 怒りとあせりにとらわれる半田は、狂ったように拳を振るうが、それでも――

「ぜんぜんあたんねー!」

 半田がギアを上げれば上げるほど、拳聖さんの動きは更に早く、細かくなっていく。

もはやこれはこれをボクシングと言っていいんだろうか。

拳聖さんは激しいダンスを踊っているみたいだ。

そして、半田が拳を引く瞬間――拳聖さんは半田の拳が戻るよりも早く、シャープな拳を顔面に叩き込んだ。

半田は顔を真っ赤にしながら拳聖さんを追いかけるが、それでもそのすべてを拳聖さんは交わし続ける。

 そして一瞬で距離をつめた拳聖さんは、小気味よいコンビネーションを叩き込む。

 半田がどんなに拳を振るおうとも、拳聖さんはそのすべてをかわし、一方的に拳を叩きつけ続ける。

 すごい。

 すごいすごいすごいすごいすごいすごい! 

「全然パンチが見えない!」

 これが……これこそが――

「これこそが“シュガー”なんだよ!」

 名前のない叫びが、会場を振るわせた。

「きっとお兄ちゃん、これを狙ってたのかもしれない」

 玲於奈は恍惚とした表情でリングを見上げた。

「きっとパンチをもらいながら……リーチを計ってたんだわ」

「そうか……そして第二ラウンドのあの瞬間――」

「――半田のすべてを見切ったの。この第三ラウンドのために。左目を……犠牲にして……」

 拳聖さんのスピードはぐんぐん上がる。

 先ほどとは正反対の光景がリング上に展開される。

 必死の形相で拳を振るう半田のその全てをかいくぐり、高速のコンビネーションが回転する。

 それはまるで、新しい産声を上げ、泣きじゃくる赤ん坊のようにすら思えた。

 この世に生まれたことの不安、しかしそれを上回る生まれ出でた喜び、抑えきれない何かが噴出するかのような、歓喜の咆哮のようなコンビネーション。

 その一発一発が、確実に半田の体力を奪っていく。

 しかし拳聖さんの回転は止まらない。

 二度とないこの瞬間を、味わい尽くすまでは終わらせない、とでも言わんばかりに。

 拳聖さんは、ゆっくりと左手をくるくると回す。

 そのたびに、会場に歓声と悲鳴、ため息が響き渡る。

 その拳は、形容しがたい軌道を取り半田の右顎に食い込む。

 敵も味方もない、この会場のすべてが拳聖さんという世界に酔いしれている。

 パンチを受けた半田の表情には痛みどころか、どこか陶酔したような、快楽の趣すら感じられる。

 酩酊したように後によろめく半田の体にぴったりと寄り添い、拳聖さんはため息をつくようなスピード、角度、最高のタイミングで、何かを求めるように右腕を伸ばす。

 トン

 まるで天国の扉を開くような、神々しい最高の瞬間だった。

 一切の無駄をそぎ落とした、痛みも威力すらも感じさせない、とびきりスウィート、とびきり“シュガー”な、本物の――

「――“天使の右ストレート”だ」

 半田の長い両足はぐらりと崩れる。

 ゆらりと腰から後に崩れ、そしてロープの隙間に滑り込む。

拳聖さんはリング外に転落しそうなその体に腕を絡め、そしてそれをゆっくりとキャンバスの上に横たえ、ドナッテルロの「ダヴィデ像」のように見下ろした。


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