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第37話

 カァン

“第一ラウンド”

 先に仕掛けたのは半田だ。だらりとたれた長い腕が、ゴムのように伸び、ムチのようにしなり襲い掛かった。

「な、何今のジャブ?」

 そもそも、構えからして異様過ぎる。

「あんなに左ガードを下げて、顔面をがら空きにしちゃうなんてありえるの?」

「“フィリー・シェル”よ」

「? なにそれ?」

「“フィラデルフィアの貝”、本来は左の顔面ガードを腕ではなく、肩をロールさせながら行うディフェンシブなスタイルのことよ」

 ディフェンシブってことは……ディフェンス重視のスタイルってこと?

「これにクロスアームディフェンスを用いれば、それはさらに固くなるわ」

 けど、これはどう見たって――

「どう見たって、攻撃重視のスタイルにしか見えないよ!」

「あの反則的なサイズだからこそできる、攻撃的なフィリー・シェルよ」

 長くしなやかな腕から繰り出されるジャブが、空を切り裂く。

「あれだけのリーチと懐の深さがれば、そもそもめったにパンチを食らわないわ。だから本来はガードがメインの左手を大胆に開いて、完全に攻撃に専念させることが可能なの」

 異様に長いあの左腕が、ボディーから顔面に、縦横無尽にパンチを繰り出し続ける。

「お兄ちゃんは本来ボクサースタイルだから、リーチを考えると相性はあまりよくないの」

 半田の左ジャブが、拳聖さんの左顔面で弾けた。ただでさえ左目が見えていない中で、この左ジャブを捕らえるのは至難の――

「危ないっ!」

 打ち下ろすような右ストレートが拳聖さんの左のガードごと体を揺らした。

「あられのようなジャブで相手のガードをひきつけて、打ち下ろしの“チョッピング・ライト”を叩き込む。半田の必勝パターンよ」

 石神さんの言ったとおりだ……。

 拳聖さんは一度も負けたことがないって言ってたけど、むしろどうやってこの“怪物”に勝てたのか不思議な気分にすらなってくる。

「けど、それでもお兄ちゃんは常に勝って来たわ」

 拳聖さんは悠々とバックステップを取ると、再び軽快にリズムを刻み始めた。

「だからこそ、お兄ちゃんは“シュガー”なの」

 ? 拳聖さんが、くるくると左手を回し――

「速っ!?」

 半田の顔の右側面が弾けた。

「な、な、な、なに今の!?」

「何って……あんた目悪いの?」

「いやいやいや! 見えるわけないよあんなの!」

「あたしだって完全に捕らえられたわけじゃないけど……スマッシュね。フックとアッパーの中間軌道で繰り出されるパンチのことよ」

 なんで玲於奈はそれを目で追えるの?

「お兄ちゃんのパンチは、ただ速いだけじゃないわ。普通の人はパンチを受けるとき、予備動作で動きを予測するの。だけど、お兄ちゃんはあの細かいボディーワークでその予備動作を全部消しちゃってるから、どんなに動体視力がよくっても反応できるものじゃないの」

 拳聖さんは一気に距離をつめると、ジャブを数発――かと思ったら、いきなりショートのアッパー――至近距離に踏み込むと、フックアッパーフック……だめだ!

「全然捉えられない!」

 夥しいパンチのビートが半田を叩く。

 そしてそのすべては、確実に半田の体を捉えている。

 それを嫌がった半田が、ロープにもたれかかるように距離をとったその出鼻――

 ガコッ

 右のストレートが決まったその瞬間、会場にポジティブな悲鳴が響いた。

 僕の口からは、もはや感嘆すら姿を現さなかった。

「もし世界中の高校生を同じサイズ、同じウウェイトで戦わせたたとしたら――」

 玲於奈は少しだけ興奮したトーンで断言した。

「お兄ちゃんに勝てる人間なんていないわ」

 うん、その気持ちは僕にとっても同じだよ。

そうだよ、僕達が余計な心配なんて――

「ちょ、ちょっと、どういうこと?」

 僕たちの目の前で展開された信じられない光景に、さすがの玲於奈も声を上げる。

「あれだけ綺麗にもらったはずなのに……半田が立ち上がった?」

「お兄ちゃんが……お兄ちゃんがミートをはずしたって言うの?」

 レフェリーは半田の意識を確認する。

「ボックス!」

 半田は後に下がりながらジャブとフットワークで距離をとり始めた。

「明らかに打ち合いを嫌がっているね」

「たぶんまだダメージが残っているからなんだろうけど……厄介だわ」

 あくまでもジャブでこのラウンドをしのごうとしているのは見え見えだ。

「だけど今の拳聖さんには……むしろこのスタイルのほうが……」

 決定的なヒットは避けながらも、それでも何発かのスナッピーなジャブが拳聖さんの左の顔面を捉える。そしてその頻度は――

「このままだと……気づかれちゃう……」

 カァン

 コーナーへと戻る拳聖さんに、玲於奈はすばやくストゥールを差し出した。

「どうした。ノックアウト、というわけにはいかなかったが、しっかりダウン取っただろ」

「そ、そうで――!? け、拳聖さん、その目……」

 ストゥールに腰掛けうがいの水を吐き出す拳聖さんの左目が、赤く晴れ上がっていた。

「やっぱり一年間のブランクは大きかったのかもしれないな」

「そうね。とにかくあのジャブだけは気をつけて」

 僕たちは知っている。

 拳聖さんの視界を妨げたのは、ブランクなんかじゃないって。

「そうだな。あいつのことだ。容赦なくこの左目狙ってくるだろうよ」

「次のラウンドに勝負をかけてくるのは間違いないわ」

 けど問題なのは、この試合に勝てるとか勝てないとか、そんなレベルの話じゃない。

 このまま左目を狙われ続けたら――

「セコンドアウト」

 や、やべっ! 

 は、早くエキップメント片付けなくちゃ。

 カァン

“第二ラウンド”

 トントントントン、半田はフットワークを更に軽くした。

 第一ラウンドよりも更に拳聖さんからの距離を取り、拳聖さんを支点に、その長い手足をコンパスのように周囲を回る。

 そのサークルの中心、拳聖さんの左目に向かいさらに変則的なジャブを繰り出す。

「お兄ちゃん……距離を見失ってる……」

「えっ?」

「第一ラウンドの右ストレート……わずかだけどミートのポイントが外れてたんだわ。最高の距離とスピード、絶妙のタイミング。それを感じ取れる天才的なセンスがあるからこそお兄ちゃんはスウィートなの。“シュガー”なの。けど、今のお兄ちゃんは――」

 拳聖さんはディフェンステクニックを駆使し、半田のジャブをしのぎきる。

 大きく距離をとると、再び小刻みに体を動かしパンチの的をはずしていく。

 そして、ジャブの引き際を狙い踏み込むと、小刻みなショートを叩き込む。

「――片翼を失った天使みたいなものよ」

 しかし半田は更に大きく距離をとり、入念、といってもいいほど慎重に左を叩き込む。

 その速さと不規則さ、そして異常なほどに長いリーチに、さすがの拳聖さんも数発の被弾を避けられない。

 そのたびに拳聖さんの左目が赤くはれ上がる。

 その被弾の数は明らかに増えている。

 決定的なミートをはずしてはいるのだろうが、次第に左目のはれが大きくなる。

「お兄ちゃん……もうやめて……」

 玲於奈はついに、隠していた悲痛な本心を口にした。

「これ以上打たれたら……お兄ちゃんの目……」

 拳聖さんがタフな姿を見せれば見せるほど、その左目は――。

「お兄ちゃん!」

 本来あってはならないセコンドの声、しかし、耐え切れずにあげた玲於奈の目の前では、拳聖さんがロープに追い込まれ、そして半田のラッシュの集中砲火を浴びていた。

 バックステップの空間を失った拳聖さんは、ショルダーロールとクロスアームブロック、ロープワークで拳をしのぐ。

 もはや、パンチを出すことすらままならない。

 明らかに左顔面への反応が鈍っている。

決定的な被弾をかわすセンスがある分、積み重なるように左目のダメージは増えていく。

 リングの上、拳聖さんはそれでも半田の拳を防ぎ続ける。

 徐々に拳聖さんのガードが下がってくる。

 そしてその瞬間を半田は見逃さず――

「ふがあああああああっ!」

 半田の打ち下ろしの右ストレートが、確実に拳聖さんの体をなぎ倒した――

「え?」

 ――はずだった。

 驚愕に目を丸くする半田。

 そして言葉を呑む僕たち。

 半田の右拳は拳聖さんの頬を通り抜け、コーナーポストにめり込んでいた。


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