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第36話

「いよいよっすね。最終試合、ウェルター級」

 今回ばかりは、馬呉さんも興奮を隠しきれないみたいだ。

「ようやく見られるぜ、あんたのボクシングがよ」

「本当に長かったわ。お兄ちゃん」

 万感の笑顔を、石神さんと玲於奈は浮かべた。

「そうか、一年ぶりか。長らく待たせちまったな」

 そういうと、拳聖さんは高々と右拳を上げる。会場は、あの日のインターハイみたいに、歓声と悲鳴、そしてため息に包まれた。

――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――

 その手拍子と歓声は、もう噴火直前の火山の地鳴りのようだ。

「おう、定禅寺西のボクサー諸君」

「佐山先生! 石切山先生も!」

「佐藤君惜しかったやんか。一ヶ月でここまで仕上げてくるとは、えらいたいしたもんやで」

「あ、ありがとうございます」

「けどな、運が悪かったわ。もう、数分前の君の激闘なんか、誰の頭にも残りよらんで」

「ははは、仕方ないですよ」

 当の本人が自分の試合の余韻なんかそっちのけで次の試合を、叫び声をあげたいほどに待ちわびているんだもの。

 だって――

「“シュガー”が再び、リングに降り立つんですから」

「ひっひひひひ」

 この厭味ったらしい笑い声は……。

「まあ、このウェルター級こそが、この試合の本番みたいなものですからねえ……」

 うげっ……漆畑……。

「この一戦で、うちと定禅寺西さんとどっちが上か、全国に示せるってものですよ」

 失礼な漆畑の言葉もどこ吹く風、拳聖さんはクールに、けど甘く笑った。

「この一戦ですべてが決まる、か。最高のステージにしてやるさ」

 そういうと、拳聖さんは控え室のほうへと姿を消した。

「さて……っと」

 その姿を確認すると、美雄はポケットに手を突っ込み、パイプ椅子の背もたれに腰掛けた。

「皆もう、知ってるんすよね」

「え? 美雄、一体――」

「これでもこの一ヶ月間、ずっと二人で練習してきたんだ。どんなバカだって気が付くさ」


――


「そういうこと、ね。なんか仲間はずれにされてたみたいで、ちょっと傷つくな」

「まあそういうな。俺もこいつらには一切話ししてねえんだからよ」

「僕たちこそ、すいません」

 僕は、深く頭を下げる。

「石神さんが、拳聖さんが復帰することに反対していた意味、全然理解できなくて」

 玲於奈は唇をかみ締め体を硬直させている。

 そうだ、一番つらいのは玲於奈なんだ。

「けど、もうしょうがねえよ。俺達が何言ったって聞きゃあしねえんだから。それに――」

 石神さんは、僕と玲於奈の肩にポン、と手を置いた。

「考えてみりゃあよ、もし俺があの人の立場だったら……同じことをしてたと思うぜ」

 石神さんは、にやりと笑った。

「そうは思わねえか? なあ馬呉よ」

 いつも控えめなはずの馬呉さんが、熱っぽく、力強くうなずいた。

「結局、自分たちはボクサーなんです。ボクサーとしての自分自身が、一番大好きなんです」

「拳聖さんは……いや、違う。俺も含めて、みんな待ってのかも知れないっすね。みんなどっかで、もう一回自分に火を入れてくれる誰かを。そしてそれは――」

「決まりだな」

 石神さんはにやりと笑い口を開いた。

「最後の試合、セコンドは……玲、玲於奈、拳聖さんについてやってくれ。拳聖さんも、それを望んでいるさ」

 そう言うと美雄は、僕の肩にジャージーをかけてくれた。

「へっ、そういうこった。それに相手はなんつってもあの――」

 石神さんが赤コーナーを睨めば、その異様に長い肢体がいまや遅しと待ち構えていた。

「――そ、そうっすね。相手はあの……は、半田当真さんっすから」

「身長百八十八センチ、二メートルを優に越えるリーチ、ウェルター級では破格のサイズ」

 改めてみると、その手足がありえない程に長く、そしてシャープに感じられる。

 石神さんは、その丸太のような腕を組んで忌々しそうに言った。

「そこから繰り出される反則級のジャブとストレート。はっきり言って“怪物”さ」

 玲於奈……すごくつらそうな表情だ……。けど……だからこそ――

「さ、行こう玲於奈!」

「え? ちょ、ちょっと――」

 僕は、玲於奈の手を掴んだ。

「僕たちがここで心配してたって仕方ないよ。だから僕たちは、拳聖さんが百パーセントの力を発揮できるようにサポートしようよ」

「玲……」

「それに、僕達が応援する相手は誰?」

「“シュガー”佐藤拳聖……あたしの、お兄ちゃん……」

「そう。だから、僕たちが何の心配もする必要ないよ」


――


 カァ――ン

 会場を震わせるゴングの音。

“最終戦ウェルター級、両選手の紹介をいたします”

 その瞬間、会場中に響く、もはや不気味と言ってもいいほどの地鳴り。

 そこにあるのは表現という形態を奪われた、純粋な感情のほとばしり。

 八月の炎天下のような、むせ返るような熱気。そしてこれからリング上で展開されるであろう光景への期待。

 そのすべてが、熱病の嵐のように狂おしく渦を巻いた。

“赤コーナー、半田選手。興津高校”

――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――

 相変わらずの勇壮な、一糸乱れぬ声援。

 けど、この熱狂の中ではもはや物足りなくすら感じられる。

 半田、悪いけどあなたじゃないんだ。

 ここにいる人たちが、救世主を待ちわびるように渇仰しているのはこの人なんだ。

“青コーナー――”

 コールを行う興津の女子生徒の声色には、どこかうっとりと艶めいた香りすら感じさせた。

“――佐藤拳聖選手。定禅寺西高校”

 ヒステリックな叫びととろけきったようなため息が、渾然一体の形容しがたいエネルギーとなり爆発した。

リングという“約束の地”、今“シュガー”は舞い戻った。

――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――

 鳴り止まない“シュガー”のコールに、拳聖さんはあの日のように自身満々に、しかし一切の驕りを感じさせることなく微笑む。

 僕たちはもはや、拳聖さんに率いられる仔羊の群れに過ぎない。

 今日今この場所で失神してしまった人がいたとしても、一切疑うことはないだろう。

 だって僕も玲於奈も甘い陶酔に、立っているのすらやっとだったんだから。

「何度立っても格別だな。試合前のリングってのは」

 青コーナーのポストにもたれかかる拳聖さんは、ぬるい水の中をたゆたう魚のようだ。

「うん、すごく素敵……。このお兄ちゃんの姿、すっと待ってたんだから……」

 玲於奈の中の心の迷いは、リングの上の拳聖さんのスウィートな姿に、どこかに吹き飛んでしまったみたいだ。

 拳聖さんは、僕たちの頬に優しく自分の頬を当てた。

 ほんの少しだけにじんだ汗が、僕の右頬にしっとりとした感触を残した。

「セコンドアウト!」

 そして、僕たちの耳元には、甘く、少しだけくすぐったいささやきを残した。

「瞬きなんかするな。息だってするな。俺だけを見ていろ」


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