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第34話

 カァン

“それではこれより、第四回戦、フライ級の選手を紹介いたします”

「いやに落ち着いてるじゃねえか」

 石神さんがにやりと笑う。

「いい面構えしてるよ。なんかこう、覚悟が決まったっつうことか」

「そんなことないです。この大観衆に大声援、心の中は大嵐ですから」

“赤コーナー、興津高校、門田翔太選手”

――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――

 高校に入るまでまともに運動もしたことのない僕が、たかだか一ヶ月の練習でリングに立つんだ。

 普通だったら絶対にありえないことだし、確実にぼこぼこにされるはずだ。

 けど――

「けどここだけの話、KO狙ってたりするんですけどね」

「へっ、当然だろ。んなことより、お前の“アンヘル”にいいところ見せられそうか?」

「“アンヘル”?」

「とぼけんなよ。お前の“天使”、あの洗濯板のことだよ」

「はは……け、けど、正直、いいところ見せられるなんて思っちゃいませんよ。精一杯拳を振るって、ぼこぼこになって顔を腫らして、それでもとにかく前に出ようと思い――わっ」

「ぎゃははは、いい度胸だよ」

 ガシガシと、石神さんは乱暴に僕の頭をなでた。

「泥臭くていいんだよ。勝とうが負けようが、精一杯のお前の本気を見せてやりな」

「ごめんごめん、ちょっと支度に手間取っちゃって……って、なによ、何でそんなにニヤニヤしてあたしのこと見るのよ……」

「何でもねえよ。なっ?」

「はいっ」

「何よそれ。バカにしてんの?」

「んなことよりよ、拳聖さんはどうした?」

「お兄ちゃんなら今馬呉と美雄と一緒にアップしてるわ。とりあえずもうじき終わると思うから、あんたの試合はばっちりと見届けられるって。大丈夫。骨はしっかり拾ってあげるから」

 ははは……相変わらずきっついなあ……。

“青コーナー、定禅寺西高校、佐藤玲選手”

 僕はレフェリー、ジャッジをはじめとする役員、観客の人たちに向かって頭を下げた。

「選手中央へ」

 僕はその言葉に従い、リング中央で相手選手と向かい合う。

「この試合はあくまでも親善試合であるから、お互いに反則などで公式戦に支障をきたすことが無いよう、全力で技を交換し合うように。いいね?」

「はいっ!」「しゃっす!」

 僕たちはグローブを合わせた。

 カァン

「ボックス!」

 レフェリーの声に、僕はまっすぐに相手に向かう。ガードを固めて頭を振る。不器用な僕ができることはそれだけだ。そして、左、左左。身についてきた基本のジャブ。それをとにかく泥臭く泥臭く繰り返す。

「ふあっ!」

 ガードの上だろうとかまわず、僕は右フックを叩き込んだ。

 ほんの少しだけだけど、相手の体ががくりと揺れる。

 しかし、今度は僕の体ががくりと折れる。

 右ストレートを防ぎながらも、ボディがみぞおちに食い込んだ。

 だ、大丈夫……。

 ある程度なら我慢できる……。

 とにかく僕は顔面を守り、前へ前へと腕を振る。引いちゃだめだ。

 とにかく前へ――

「ぐっ」

 カウンター……。

 落ち着け落ち着け、ガードを下げるな。

 差し込ませちゃだめだ。

 距離をおいて左フックを繰り出す。

 やばい! 

 右フックが見切られた!

 ヒュン

 ダッキングからの左アッパーが右顎を掠める。

 効いてないっ! 

 ?

 やばいっ! 

 僕はコーナーポストに追い詰められていた。

 ボディーの連打に襲われる。

 僕の呼吸はとまり、体勢は亀になる。

 頭とか……急所とかだけは……。

 ここから抜け出さなきゃ――

「ふわはぁっ!」

 大きく右フックを繰り出せば、相手の体は下がる。

 よしっ、何とか抜け出せた。

 もう一度距離をとって、ジャブから立て直す!

「ふわらっ……ぶっ!」

 またもらっちゃった!

 だめだっ!

 こっちは全然当たってないのに、向こうのジャブ――

 カァン

 ゴングに助けられちゃった……。ああくそ!

「なかなかよく動けてたぜ。初めての試合にしちゃ上出来だ」

「……んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷはあっ! はあっ、はあっ、はあっ……ぜっ、ぜっ、ぜっ……だめです……全然思ったとおりにいかな――」

「あんたに“スウィート”な勝利なんか期待してないわ」

 あっ……なんか涼しい風――

「“ビター”で当然よ。頭だけ守って、亀になってどんどんパンチを出しなさい」

 玲於奈はパタパタと、タオルで僕の体を扇いでくれた。

「それとも、痛くてそれどころじゃない?」

「痛いけど……うん、たぶんまだまだ大丈夫、はあっ、はあっ……」

「もしここで弱音なんか吐こうものなら、あたしが止めを刺してやろうと思ってたわ」

「ぎゃはは、けど、二ポイントはロスしてるぜ。まあ、頭もげても前に出続けるしかねえな」

「あんたはそうね“ジョー・フレージャー”になったつもりで、とにかく前に出続けなさい」

「えと……誰?」

「セコンドアウト!」

「ああもう! ボクシング部の人間がそんなことも知らないの? とにかく今日はあんたの“後退のネジ”をはずしなさいっ!」

 カァン

「ボックス!」

 ジョー・フレージャーが誰だかよくわかんないけど――

「“後退のネジ”をはずせばいいんだろっ!」

 とにかく僕はガードを固める。

 ガードからの左右の連打を繰り出して距離をつめ、さらに近距離の連打で勝負をかける。

 とにかく、とにかく一発を――

「ふがっ!」

 やや隙の大きいボディーに、何発ものストレート、そしてフックが食い込む。

 体が激しい痛みの訴えを、僕の脳へと伝える。

 しかし、僕の意思はそれをねじ伏せる。

 痛みを、そうと認識しなければいいだけの話だ。

 後退しさえしなければいい。我慢し続ければいいっ。

 とにかく倒れずに、どんなに左ジャブをもらったって、僕のこの右ストレートを相手に叩き込む!

「うわあああっ!」

 ――あれ?

 不意に僕の左顔面に、マットがぴったりと密着した。

 やけにビビッドなリングシューズの赤だけが、僕の目を刺す。

「ダウーン! ニュートラルコーナーへ!」


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