誰もいなくなった控え室、僕はそっと目を閉じる。
だめだ……心臓が爆発しちゃいそうだ……。
うん、呼吸が上がりすぎた、ってわけじゃないよ。
そっか……。緊張してるんだ……。
「あああああああっ!」
とにかく体を動かさなきゃ! じっとしてらんないや! とにかくシャドウだ!
「ふっ! ふっ! はあっ!」
ガチャリ、控室の扉が、ノックもなく開け放たれる。そこから姿を現したのは――
「あんた何やってんの?」
「はあっ、はっ、は、っ、玲於奈……」
素の顔を見られっちゃったみたいで、なんだか恥ずかしいな……。
「はっ、はっ、何だか緊張しちゃって、居ても立っても居られないって言うか――」
「――棄権しても、いいのよ」
「え?」
その言葉に、思わず僕は自分の耳を疑った。
「もういいじゃない。ボクシング部復活は確実でしょ? こんな公式戦でもない大会に、これ以上付き合う必要はないわ」
「確かにそうかもしれないけど……けど、僕はこの試合に勝つことを目標にして頑張ってきたんだ。棄権するつもりなんて、さらさらないよ」
「ぼこぼこにされちゃうわよ」
玲於奈は壁に背中をもたれかけると、うつむいたまま静かに口を開いた。
「あんたの相手、ジュニアで全国大会に出場経験もある強敵よ。あんたはこの大観衆の前で、ロープで区切られたリングの上で、思いっきり殴られちゃうの。それでもいいの?」
玲於奈の言うように僕はぼろぼろの雑巾みたいになっちゃうんだろう。なんだあいつ、素人丸出し、よわっちいな。うなだれる僕を、哀れみとあざけりの目で見るんだろう。だけど――
「――僕は、かまわないよ。ぼろぼろになっても前に出る、それが僕のボクシングだもの」
「あんたが……あんたが殴られるところなんて見たくないの」
玲於奈は叫ぶと、僕をきつく抱きしめた。
「きっと……きっとこのまままじゃあんたもお兄ちゃんみたいになっちゃう。あんたまでそんなことになっちゃったら、あたし……あたし……」
玲於奈……。ありがとう。その気持ちは、すごくうれしいよ。だけど――
「お願いだ、玲於奈。どんなに格好悪くても、僕のことを見ていて欲しいんだ」
「甘いこと言わないで」
僕の首元に、玲於奈の吐息が熱く感じられた。
「リングに上がるのはたった一人、あんただけなのよ? どんなにあたしが応援したって、それは変わるものじゃないのよ?」
「大丈夫だよ」
確かに君の言う通りかもしれない。けど、僕は断言できる。
「僕は君の想いと一緒に、リングに上がるから」
僕がそう言うと、玲於奈はゆっくりと僕から体を離した。
「わかったわ。だったら、せめてあたしは――」
玲於奈は僕の右拳を取り、額につける。そして洗礼を施すかのように――
「――せめて、あたしの想いをこめるわ。この右の拳に」
甘い口づけをした。
拳の先を通して暖かい何かが僕の腕から肩、頭、そして前身に伝わってくる。
その暖かさは、破裂しそうなほどに脈打つ僕の心臓を少しずつ包む。
強張った体と心が少しずつ解き放たれていく。
右拳が、羽根が生えたように軽くなった。
「せめて……一発だけでいい。あんたとあたしの思いをこめた右を、あたしに見せて」
玲於奈の額に僕の額をくっつけた。
「ねえ、玲於奈。僕がこの試合に勝ったら、君に伝えたいことがあるんだ」