「一ラウンドだけよ。遠慮なんていらないから」
すでにもぬけの殻になった、定禅寺西高校のボクシングジム。僕たちは練習用のタンクトップとショートパンツに身を包み、そして一六オンスのグローブを腕にはめていた。
「もう三十秒したら、デジタイマーがなるわ。あたしの課す、最後の試練だと思って」
カァン
グローブをあわせ、僕たちは一人のボクサーとして向かい合った。落ち着け落ち着――
「かっ!」
くっそ! またやられた! あのジャブを何とか――
「しっ! しっしっ!」
くっ、だめだ、僕のジャブなんか、完全に見切られてる。だめだっ――
「ぷぷふっ!?」
カウンターの右……。
唇が切れたか?
いや何てことない!
よしっ!
かすっただけだけど、左がギアを捕ら――っく、また距離をとられた……。
慌てるな、僕……。
スピードでは圧倒的に玲於奈のほうが上だけど――
「うらあっ! ふんっ! ふわっ!」
根性なら負けないっ!
「がっ!」
てえっ!
けど痛くないっ!
右ストレート、ほんとはめちゃくちゃ痛いけどっ!
「痛くないんだっ!」
パンチをもらったらパンチを返す!
それが僕のボクシングだ!
よし!
ロープに追い詰めた!
拳聖さんに放ったコンビネーション!
まずはボディ!
下に意識を集中させて!
「うらあああああああああ!」
右ストレート!
ゴッ
「っしゃあ!」
って――
「ああああ! 玲於奈! 大丈夫!? いま冷やすもの持ってくるね!」
早くヘッドギアとグローブ取らなきゃ!
ゆっくり、ゆっくりと。これでよし……って――
「え? れ、玲於奈? ちょ、ちょっと――」
――
っててててて……。
玲於奈?
気がつけば玲於奈に抱きつかれて、押し倒されていた。
「あんなパンチが……見えないわけないでしょ……あんたごときの……グローブ握って一ヶ月しかたっていない……あんたごときのパンチが……」
震えてる……。
いや――
「ひっ……ひん……ひっ……」
玲於奈は、泣いている。
僕の首元にしっかりと腕を絡めて、僕の体を、きつく、痛みを感じるほどにきつく、抱きしめて。
「あんたのパンチなんか……本当に……本当に止まって見えるわよ……」
玲於奈の呼吸は熱く、湿っぽく僕のタンクトップを濡らした。
僕は、なだめるように玲於奈の髪をなでた。
「そうだね。君なら間違いなくあのパンチ、よけられたよね。拳聖さんだって――」
うん。
そうだ。玲於奈は――
「拳聖さんが受けたパンチがどれほどのものか知りたくて、あえて受けてみたんだよね」
頷く玲於奈の頭を動かす感触が、僕の胸元に伝わってくる。
そうだよ。
こんな稚拙なコンビネーションを“シュガー”なきょうだいがかわせないはずはないもんね。
「この間もそう……お兄ちゃんは……きっと……」
玲於奈は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて僕を見つめた。
「きっと……左目、見えてない……見えていないの……」
玲於奈……やっぱり、気づいていたんだね。
「昔、昔ね……お父さんがいたとき……お兄ちゃんと二人でよくスパーリングしてたの……。二人でじゃれあうみたいに……追っかけっ子するみたいに……」
僕は、優しく、丁寧に指で玲於奈の髪の毛をすいた。
「お兄ちゃんが中学生になったときかな……あたし、いつも通りお兄ちゃんとスパーリングしてたの……そしたらね……偶然に……本当に偶然にね……ものすごく……本当に思い出しても身震いするようなあたしの人生最高の右ストレートが……お兄ちゃんの右目に……」
玲於奈は上体を起こすと、寝そべる僕を見下ろすようにして叫んだ。
「あたしのせいなんだよ!? ねえ! あたしのせいで左目見えなくなっちゃったんだよ!?」
玲於奈は、ものすごい力で僕のタンクトップを握り締める。
「事故だったんだよ、玲於奈」
「あんたになにがわかんのよ! もやしのくせに! よわっちいくせいに!」
赤ん坊のように絶叫した玲於奈は取り乱し、僕の胸を叩いた。
「拳聖さんは、言ってたよ。ただ純粋にボクサーとして、最後まで燃え尽きたいんだって」
僕は玲於奈を、再び僕の胸元に抱き寄せた。
そう、僕たちは迷っちゃいけないんだ。
「誰のせいでもない、拳聖さんの、プライドを賭けた選択なんだ」
拳聖さんは、拳聖さんの中のボクサーの魂は、どこかで待っていたんだ。
くすぶっていた魂に、もう一度火を入れられる瞬間を。
「わけわかんない……なんでそんなのに人生かけられるのよ……単なるバカじゃん……」
「ははは、君たち女の子から見たら、そうなのかもしれないね」
男って、勝っても何も得られないような戦いでも、胸を震わせて立ち向かっちゃうんだ。
「勝つよ。僕たちは勝つ。玲於奈」
それきり玲於奈は何も話そうとせず、僕の胸の中でずっと泣き続けた。
それが一〇分なのか一時間なのか、それとももっと長かったのか、僕にはよく分からない。
この答えが正解だったのかどうかも、やっぱりわからない。
だから僕に出来ることは、この選択が自分にとって最良なものなんだって信じて、ただがむしゃらに戦うだけなんだ。
「僕は、拳聖さんは、もう絶対に振り返らない」