拳聖さんの――目が――
ふう、観念したようにため息をつき、拳聖さんはシニカルに微笑んだ。
「別に見えてないわけじゃない。ある程度は把握できてるさ」
「で、でも拳聖さん……今度の相手は……あの半田っすよ? い、今はぼんやりでも、激しい打ち合いにでも巻き込まれたら……もしかしたら……」
「そりゃその可能性は排除できないさ。それはすべてのボクサーが抱える――」
「一般論なんか聞いてねえ!」
石神さんは荒々しく壁を殴りつけた。
「今すぐ棄権しろ。あんたは、部にいるだけでいいんだ。俺がウェルターも出場して、しっかりボクシング部復活させてやっからよ。それが“現実”的な方法だ」
石神さんの言葉は、もはや懇願だった。
「“現実”、か」
けど、拳聖さんは相変わらず、いやむしろ、いっそう穏やかな表情で口を開いた。
「なあ拳次郎。お前はボクシングが好きか?」
「ああ? 何で今そんな――」
「もう二度とボクシングができない、その“現実”が目の前に突きつけられたとき、最初はむしろほっとしたよ。最高のボクサー“シュガー”としての記憶を焼き付けたまま引退できる。たぶん俺の考えうる限りの最高の引退さ。けど――」
とん、拳聖さんはサンドバッグを抱えるようにして、そこに額をつけた。
「――けど俺は気づいてたんだ。消し炭みたいに燻ってた、ボクシングへの情熱に。何度か、やっぱりイシさんに頭下げて、せめて高校卒業まではボクシングを続けたい、そう言おうと思ったこともあった。けど、俺も人間なんだよ。怖くて仕方がなかったんだ」
そして拳聖さんは、搾り出すように言った。
「この左目が見えなくなってしまう。その“現実”に、俺は抗うことさえできなかったんだ」
「あいつらのせいなのか!? あんた、あのガキどもに義理立てでもしてんのか?」
そうだ、何の事情も知らないまま、無責任に拳聖さんを焚きつけて……リングにあげようとしたのは、僕たちなんだ。
僕は、もしかしてとんでもない過ちを犯してしまったのか?
「俺は玲に“一杯のコーヒー”すらおごってもらったことはない」
静かに首を横に振った拳聖さんは、それでも穏やかに言った。
「今はただ純粋に、俺だけのために……ボクサーとしてしての俺を燃やし尽くしたいんだ」
「燃やし尽くす? 燃やし尽くすってあんた――」
「しかもその相手は、半田って言うとびきり強いボクサーだ。そいつを相手にリングの上ですべてを終えられるとしたら俺は――」
拳聖さんは、高ぶりを抑えきれないかのように強く拳を握り締めた。
「――俺はもう、それだけで充分だ」
「けっ、勝手にしろよ……。俺は忠告だけはしたからな。あんたの左目が見えようがいえまいが、それはあんたの選択だ。俺はもうしらねえからな!」
それっきり石神さんはうつむき、そして口をつぐんだ。
※※※※※
「おう、全員集まったみたいだな……って、なんだ、拳聖の妹までいたのか」
「定禅寺西高校ボクシング部のコーチがミーティングに顔出して何が悪いの?」
対抗戦を明日に控えた四時間目終了後の部室。大きなダンボールを抱えた石切山先生に、もはやすっかり部員の一人になった玲於奈が噛み付く。
「そもそもイシちゃんがきちんと指導してればあたしがコーチなんか引き受ける必要なんかなかったのにさ」
「それを言われるとな……」
石切山先生はばつが悪そうに頭をかいた。
「あーくそ! 何で俺らまで荷物運び手伝わされなくちゃならねえんだよ!」
「しょうがないっすよアニキ。どう見ても俺ら、肉体労働専門ですしいたっ!」
「お前と一緒にするんじゃねえ!」
先生の後についてダンボールを運ぶ石神さんは、馬呉さんのむこうずねを蹴り上げた。
「はっ、確かに俺や悠瀬と違って、拳次郎たちのほうが向いてそうだな。な?」
「ええ。そうですね。俺たち、力仕事って柄じゃないっすからね」
「やかましいわ!」
穏やかに笑いながら石神さんをからかう拳聖さんと美雄。
さわやかに笑う横顔を見てると、昨日のあの会話自体が夢か幻みたいに思えてしまう。
――
「うわっ! これって!」
「俺からのせめてものお前等へのはなむけ……いや、せめてもの償い、というべきか」
石切山先生は、恥ずかしそうに頭をもしゃもしゃとかいた。
「“新生”定禅寺西高校ボクシング部のスタートには、もってこいってとこっすね」
「ああ。そういや悠瀬も玲も、一年生はそもそも揃えてすらいなかったからな」
「ぎゃははは、しみったれたあんたにしては奮発したじゃねえか……って何だよ、この紙」
「お前だけは自腹な」
「殺すぞブタ!」
すごい……格好いい……。僕はそれを手に取り掲げて読み上げた。
「“JOUZENNJI.W.H.S. BOXING CULB”」
そしてその下には、“R.SATO”。僕のジャージー。それに、試合用のタンクトップにハーフパンツだ。
「まあ……拳聖の妹も言うように、俺は結局何も出来なかったからな。せめてこれを着て、明日は堂々と胸を張って戦って来い」
――
「それじゃ、また明日な」
マンションへと続く分かれ道、美雄はちょっときざっぽく片手を挙げた。
「うん。頑張ろうね」
「寝坊するんじゃないわよ」
「誰が。それじゃあな」
美雄は、髪の毛を掻き揚げて小さく手を振った。
「さ、僕たちも早く帰ろう。せっかくだから、今日くらいは美味しいし――」
えっ? 誰かが僕の背中の服を……って――
「どうしたの玲於奈?」
「話したいことがあるの。来て」