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第28話

 拳聖さんの――目が――

 ふう、観念したようにため息をつき、拳聖さんはシニカルに微笑んだ。

「別に見えてないわけじゃない。ある程度は把握できてるさ」

「で、でも拳聖さん……今度の相手は……あの半田っすよ? い、今はぼんやりでも、激しい打ち合いにでも巻き込まれたら……もしかしたら……」

「そりゃその可能性は排除できないさ。それはすべてのボクサーが抱える――」

「一般論なんか聞いてねえ!」

 石神さんは荒々しく壁を殴りつけた。

「今すぐ棄権しろ。あんたは、部にいるだけでいいんだ。俺がウェルターも出場して、しっかりボクシング部復活させてやっからよ。それが“現実”的な方法だ」

 石神さんの言葉は、もはや懇願だった。

「“現実”、か」

 けど、拳聖さんは相変わらず、いやむしろ、いっそう穏やかな表情で口を開いた。

「なあ拳次郎。お前はボクシングが好きか?」

「ああ? 何で今そんな――」

「もう二度とボクシングができない、その“現実”が目の前に突きつけられたとき、最初はむしろほっとしたよ。最高のボクサー“シュガー”としての記憶を焼き付けたまま引退できる。たぶん俺の考えうる限りの最高の引退さ。けど――」

 とん、拳聖さんはサンドバッグを抱えるようにして、そこに額をつけた。

「――けど俺は気づいてたんだ。消し炭みたいに燻ってた、ボクシングへの情熱に。何度か、やっぱりイシさんに頭下げて、せめて高校卒業まではボクシングを続けたい、そう言おうと思ったこともあった。けど、俺も人間なんだよ。怖くて仕方がなかったんだ」

 そして拳聖さんは、搾り出すように言った。

「この左目が見えなくなってしまう。その“現実”に、俺は抗うことさえできなかったんだ」

「あいつらのせいなのか!?  あんた、あのガキどもに義理立てでもしてんのか?」

 そうだ、何の事情も知らないまま、無責任に拳聖さんを焚きつけて……リングにあげようとしたのは、僕たちなんだ。

 僕は、もしかしてとんでもない過ちを犯してしまったのか?

「俺は玲に“一杯のコーヒー”すらおごってもらったことはない」

 静かに首を横に振った拳聖さんは、それでも穏やかに言った。

「今はただ純粋に、俺だけのために……ボクサーとしてしての俺を燃やし尽くしたいんだ」

「燃やし尽くす? 燃やし尽くすってあんた――」

「しかもその相手は、半田って言うとびきり強いボクサーだ。そいつを相手にリングの上ですべてを終えられるとしたら俺は――」

 拳聖さんは、高ぶりを抑えきれないかのように強く拳を握り締めた。

「――俺はもう、それだけで充分だ」

「けっ、勝手にしろよ……。俺は忠告だけはしたからな。あんたの左目が見えようがいえまいが、それはあんたの選択だ。俺はもうしらねえからな!」

 それっきり石神さんはうつむき、そして口をつぐんだ。


※※※※※


「おう、全員集まったみたいだな……って、なんだ、拳聖の妹までいたのか」

「定禅寺西高校ボクシング部のコーチがミーティングに顔出して何が悪いの?」

 対抗戦を明日に控えた四時間目終了後の部室。大きなダンボールを抱えた石切山先生に、もはやすっかり部員の一人になった玲於奈が噛み付く。

「そもそもイシちゃんがきちんと指導してればあたしがコーチなんか引き受ける必要なんかなかったのにさ」

「それを言われるとな……」

 石切山先生はばつが悪そうに頭をかいた。

「あーくそ! 何で俺らまで荷物運び手伝わされなくちゃならねえんだよ!」

「しょうがないっすよアニキ。どう見ても俺ら、肉体労働専門ですしいたっ!」

「お前と一緒にするんじゃねえ!」

 先生の後についてダンボールを運ぶ石神さんは、馬呉さんのむこうずねを蹴り上げた。

「はっ、確かに俺や悠瀬と違って、拳次郎たちのほうが向いてそうだな。な?」

「ええ。そうですね。俺たち、力仕事って柄じゃないっすからね」

「やかましいわ!」

 穏やかに笑いながら石神さんをからかう拳聖さんと美雄。

 さわやかに笑う横顔を見てると、昨日のあの会話自体が夢か幻みたいに思えてしまう。


――


「うわっ! これって!」

「俺からのせめてものお前等へのはなむけ……いや、せめてもの償い、というべきか」

 石切山先生は、恥ずかしそうに頭をもしゃもしゃとかいた。

「“新生”定禅寺西高校ボクシング部のスタートには、もってこいってとこっすね」

「ああ。そういや悠瀬も玲も、一年生はそもそも揃えてすらいなかったからな」

「ぎゃははは、しみったれたあんたにしては奮発したじゃねえか……って何だよ、この紙」

「お前だけは自腹な」

「殺すぞブタ!」

 すごい……格好いい……。僕はそれを手に取り掲げて読み上げた。

「“JOUZENNJI.W.H.S. BOXING CULB”」

 そしてその下には、“R.SATO”。僕のジャージー。それに、試合用のタンクトップにハーフパンツだ。

「まあ……拳聖の妹も言うように、俺は結局何も出来なかったからな。せめてこれを着て、明日は堂々と胸を張って戦って来い」


――


「それじゃ、また明日な」

 マンションへと続く分かれ道、美雄はちょっときざっぽく片手を挙げた。

「うん。頑張ろうね」

「寝坊するんじゃないわよ」

「誰が。それじゃあな」

 美雄は、髪の毛を掻き揚げて小さく手を振った。

「さ、僕たちも早く帰ろう。せっかくだから、今日くらいは美味しいし――」

 えっ? 誰かが僕の背中の服を……って――

「どうしたの玲於奈?」

「話したいことがあるの。来て」


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