「あんた! どこ行ってたのよ!」
「はっ、はっ、はあっ」
部屋の玄関に、僕はへたり込んだ。
時計を確認する。
よし、なんとか五時には間に合った。
「はあっ、はあっ、はあっ、き、昨日までのトレーニングメニュー、終わらせてきたんだ」
「はあっ? トレーニングメニューって、ロードワークのこと?」
「うん、それと、ロープにシャドウ。補強も全部終わらせたよ」
そう、僕は三時に起きて、一人でやれるメニューは全部終わらせたんだ。
玲於奈が言ってたことも全部頭に叩き込んで、一つ一つの動きを正確にこなすことを心がけながら。
僕は玲於奈に、パンチングミットを投げ渡した。
「だから、今日は、ミットを持ってほしいんだ」
玲於奈はひとしきり驚いたかと思うと、あきれたようにため息をついた。
「あんたって、単なるバカじゃなくて本物のバカだった見たいね……」
ははは、それはもう言ったとおりだよ。僕は、本物の、取り返しのつかない大バカなんだ。
「それじゃあ支度なさい! 朝食がのどを通らなくしてあげるから!」
――
「玲……玲……起きろって、玲……」
「こらぁ佐藤!」
「は、はひっ!?」
えっと……今は――
「一時間目の授業中から堂々と寝る奴があるかっ!」
あ、そうか……。
「す、すいません……」
申し訳ないけど、しばらくは授業の時間が僕にとっての休息時間になるんだろうな。
――
放課後、ロードワークへ向かう前の時間。
拳聖さんと石神さんがストレッチをしながら談笑している。
僕は二人の前にたった。
「拳聖さん。石神さん」
僕は、深々と頭を下げた。
「おかげで、すっきりしました。僕が進むべき道がわかったような気がします」
「そうか」
「へっ、ま、俺も上手く言えねえんだけどよ。悩む前にまず行動だろ」
うん。迷う前に行動。それは、玲於奈が僕に教えてくれたことでもあるんだ。
だから――
「拳聖さん、ご迷惑ついでに、ひとつお願いがあります」
「なんだ」
「対抗戦の練習の最終日、僕とスパーリングをしてください!」
「「「「はあっ?」」」」
拳聖さんと僕以外の、その場にいたみんなが驚きの声を上げた。
けど、僕は本気なんだ。
フッ、拳聖さんは、いつものようにやわらかく微笑んでくれた。
「いいぜ」
僕は、もう迷わない。拳聖さんと、僕は違う。
玲於奈だって、美雄だって、石神さんだって馬呉さんだって。
だから、僕は僕だけのスタイルを見つけ出すんだ。
そして、それを、僕をボクシングに導いてくれた拳聖さんに全部ぶつけるんだ。
――
――カァン
「はあっ、はあっはっ……」
「バカ野郎! 動きに惑わされずに、しっかり全体を見ろって言ってんじゃねえか!」
リングを振るわせる石神さんの怒号。
馬呉さんが含ませてくれた水を、僕は吐き出した。
「ほれ拭け。鼻血でてんぞ」
本当にレベルが違いすぎる。素直にそう思う。もう五ラウンドもスパーリングをやってるけど、玲於奈は全然疲れを見せない。
本当に玲於奈は天才なんだ。
「顎に気持ちいのもらっちまったら、どんなに根性あったっところで耐え切れねえんだ。顎だけはとにかく守れ。しっかり振って、的を絞らせんな」
「はいっ、石神さんっ! 玲於奈! もう一ラウンド頼む!」
苦笑しながら、石神さんは僕の頭にヘッドギアをかぶせてくれた。
「まだまだ殴られたりねぇってさ」
カアン
そうさ、僕には、他のみんなのような才能もフィジカルもないんだ。
だから僕にできることは、あがいてあがいて、何度殴られても、何度倒されても立ち上がって拳を振るい続けることなんだ。
ものすごくおかしな話なんだけど、強くなった僕を――
「ぐっ!」
――っぶなあっ! 一瞬意識とんじゃったっ! なんて左ジャブなんだ! くっそお!
「ふわああああっ!」
? またひだ――
「ふがっ!」
「部分にとらわれるなっつってんだろがぁ! 全体を見てしっかり相手の体を把握しろぉ!」
――今僕に向かって拳を振るうこの女の子に、玲於奈に見てほしいんだ。
※※※※※
「いよいよ今日だな、玲」
明後日対抗戦を迎える今日、僕は拳聖さんとスパーリングをする。
今日まで、僕は生まれてはじめて、死ぬ気で努力をした。
短い期間ではあったけど、寝る間も惜しんでボクシングに打ち込んだ。
……その分授業中、先生に半ば見放されちゃうくらいにまではなっちゃったけど。
僕と美雄は制服を脱ぎ捨てた。美雄は体重計に体を預ける。
「五九.八……ん、リミットいっぱい、だね」
僕の読み上げに、満足そうな美雄の笑顔。
「僕も、っと……」
ガシャン、体重計に乗る。
「五〇.一、もうちょっとあってもよかったけど。リミット内だから問題ないんじゃない」
「ははは……重さだけなら一ヶ月前と変わりないか」
「数字だけならな。けど実際、玲の体一ヶ月前とは全然違うぜ」
「うん、それは僕も自信がある」
今まで見えなかった腹筋のラインや、肩の盛り上がり、ふくらはぎの張り。
それに、なかなか消えない体中のあざなんかも。
自分でも驚くほどに変わったという実感がある。
「それもこれも、玲於奈のおかげかな?」
「い、いやまあ……確かに彼女のおかげではあるけれど……」
「いい女だよな。あんな子に応援してもらったら、そりゃあ玲だって死ぬ気になれるよな」
そりゃあまあ……そうだけど……って、やっぱり美雄は――
「ああ、けど誤解しないでよ。俺さ――もう玉砕したから」
へっ?
「そ、それって、どういう……」
「五日前、玲がいない隙見計らって告白したんだ。今思えば抜け駆けしちまったみたいだな」
ぬ、抜け駆けなんて、そんな……。
「あの子と一緒に過ごすようになってさ、すげーかわいいって。それだけじゃなくて――」
美雄はバッグから取り出したタンクトップに頭を通しながら言った。
「なんかこう、芯がしっかりとした、凛とした姿に惚れちまったんだよな。うん」
美雄の顔に、照れ笑いが浮かぶ。
「んで、生まれて初めて俺から女に告白したら、このざまさ。ま、あの子は俺なんか眼中になかったし、俺も言いたいこと言ってすっきりしたから、もう今は“いいお友達”って所かな」
「け、けど……二人ともいつも通り変わんなかったから……そんなこと全然……」
「あ、いまほっとしただろ」
「えっ!? な、なにいってんのさ! べ、別に僕は――」
「あーあ、振られたからにはおとなしく、ストイックにボクシングに取り組むかな」
呆然として何もできない僕を尻目に、美雄はさっさと支度を終えていた。
「感謝してるよ、玲」
「え? な、何が?」
「こんな面白いもんに誘ってくれて、さ。玲がいなかったら、きっと、俺は――」
美雄の硬く握り締められた拳が、心地よく空を切る。
「見せてくれるんだろ? 今日、俺たちに」
ニヤリ、笑みを浮かべる口元に、僕の体中の血が沸き立ったような錯覚を覚えた。
「うん!」
僕たちは、こつりと拳をぶつけ合った。