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第25話

「あっ! き、気がついたみたいっす!」

 この声は……馬呉さん……。

「あれだけのストレートだ。むしろ心地よくって、ずっと寝ててえって思う位だと思うぜ」

 すっごく明るい声……この声は、石神さん、かな……。

ストレート……って……あれ、確か僕……リングで……。 

「よかった、とりあえずは大丈夫そうだな」

 リングのマットに上半身を起こした僕の横で、美雄はほっとしたように胸をなでおろした。

「しかしすごかったな。あの右ストレート。スピードもタイミングも完璧だ」

 そうか……僕は玲於奈にKOされたんだ……。それも、あの時玲於奈が見せた――

「“天使の右ストレート”さ」

 頭の上から、拳聖さんの声が響いた。

「何年ぶりかな。けど、錆び付いちゃいないみたいだな」

「さあね」

 青コーナーのポストに寄りかかり、玲於奈が腕を組んでいた。

「すごいだろ、俺の妹は」

 拳聖さんは、少し誇らしげに僕たちに語りかけた。

「なんともまあ……本当に小さい拳聖さんって感じでしたね」

「まあな。はっ、女にしとくのがもったいねえぜ」

「そ、そうっすね……自分にも……そう思えます……」

「父さんのいたジムで、あいつは誰に教わることなく“スウィート”なボクシングをしていたものさ。二人でスパーリングしたときも、面白いくらいに右ストレートを決められたしな」

 拳聖さんと互角に渡り合う……。

 やっぱり玲於奈は天才なんだ。

 きっと、玲於奈こそが――

「――玲於奈こそが、本当の“シュガー”なのさ」

 けど、これではっきりわかった。

 僕は勘違いをしてたってことを。

 強くなったつもりで、僕は全然強くなんてなかったんだ。

 それに、もう一つわかった。

 僕には拳聖さんのような、玲於奈のような才能はない。

 ううん、美雄だって拳聖さんがうなるような才能を秘めているし、石神さんのような強打も、馬呉さんのようなフィジカルもない……何もない。

 何で僕は、中学時代、ううん、小学校のときから運動とかしてこなかったんだろ。

“自信を持ちなさい”“はっ、褒めてもなんいもでてこないぜ”

 なんで今玲於奈と美雄のやり取りなんか思い出してるんだ。

すごく情けないや。

 だめだ、泣くな僕。泣いちゃ――

「――どうだったよ、初体験は」

 僕の頭に大き目のタオルが掛けられて、がさがさと乱暴にふきあげられた。

「拳聖さん……」

 僕……悔しいです……。

 拳聖さんや、石神さん、美雄みたいに――

「なあ玲、お前は、誰だ?」

「へ? 僕は僕、佐藤玲、ですけど……」

「自分が自分である意味、よく考えてみるんだな」

 そういうと、タオルを肩にかけて拳聖んは立ち上がった。


――


「大丈夫か?」

 ベンチに座り、うつむく僕に声をかけてくれたのは――

「石神さん……」

「ほら、使えよ。顔冷やしな」

 石上さんは、アイスパックを僕に差し出してくれた。

「あ、ありがとうございます……」

 僕はそれをタオルでくるむと、あご先にそれを当てた。さっきまではよくわからなかったけど、あごの先が少しはれて、それ以上にあごの関節ががくがくしているのがわかる。

「まあ気持ちはわかるがな。そんなもんで落ち込んでんじゃねえよ。たかだか一週間くらい教そわったくらいで強くなれりゃあ、誰も苦労はしねえんだよ」

 そうは言っても、石神さんも馬呉さんも、美雄だって最初から強かったじゃないですか。

 拳聖さんの言っていた、自分が自分得ある意味、それって、僕みたいな才能のない人間は、一生拳聖さんみたいなボクサーにはなれない、ってことなんだろうか。

 もしそうだとしたら……。

「そういやお前も拳聖さんのボクシングにあこがれてこのボクシング部に入ったんだよな?」

「え? ええ、そうなんですが……」

「憧れってのはな、どう着陸させるか、なんだよ」

 着……陸……? 

 そ、それってどういう――

「――お前とあの人たちとは違うってことだ」

 石神さんは腕を組み、リング上でスパーを繰り返す馬呉さんと美雄を見つめながら言った。

「もう一度言うぞ? お前と、あの人たちは、違う。むろん、俺とだってな」

 豪快にフックを振るい美雄の体を揺さぶる馬呉さん。

 距離をとったか思えば一瞬で距離をつめ、右ストレートを繰り出す美雄。

 それぞれのコーナーで指示を出す、二人の“シュガー”。

「憧れは憧れでいい。だけどな、それにとらわれて自分を見失っちゃだめだ」

「そうは言っても……僕には何も……何もない――」

「あのよ、今こうして俺らが集まってるだけでも、奇跡なんだぜ?」

 ――カァン

 馬呉さんと美雄はグローブを合わせ、それぞれのコーナーに戻り水を口に含む。

「拳聖さんがいなくなってふらふらしてた俺と馬呉。空手をやめて勉強のことしか考えていなかった美雄。それに拳聖さん。それが今、ひとつのリングに向かい合ってんだ。何でこういうことになったか理解してんのか?」

「そ、それは……わっ!?」

「ぎゃはははは! 拳聖さんにあこがれて東京からこの定禅寺西に一人で入学してきたバカのせいだろうがよぉ!」

 石神さんは力強く僕の肩に腕をかけた。

「大丈夫だ。お前はお前が思ってるより、とびきり強い人間だよ」


※※※※※


「ところであんた、体の調子はどう?」

 今日の夕食は手作りピザ。

 練習が終わった後、僕が小麦粉を一から練り上げて焼き上げたものだ。

当然僕はいつものトップブリーダー推奨のメニューだったけど、玲於奈の食べっぷりがとてもよくて、なんだか僕も一緒に食べてるような錯覚さえ覚えたほどだ。

「頭が痛いとかはない?」

「え? あ、うん。あ、ちょっとあごの辺りに痛みが残ってるけど……うん、問題ないと思う。いつもより疲れた感じもするけどね」

「ん……緊張状態の中で体を動かすって、すごく疲れることなのよ。しっかりリラックスして動けるようになるためにならなきゃね」

「ははは……でもようやくわかったよ。玲於奈が言うように、しっかりと基礎演習を積み重ねていかなくちゃだめだってことが」

「それがわかったなら、無理やりスパーリングをやらせた意味もあったってことかしら」

 そういって玲於奈はまたピザに手を伸ばす。

 相変わらず、すごい食欲だなあ……。

「けどさ、やっぱりすごいんだね玲於奈のボクシング。ちょっと感動しちゃった」

「お兄ちゃんの妹なんだから当然よ」

 その言葉からは、ものすごく誇らしげだった。

 やっぱりきょうだいなんだよな、この二人。

「けど正直、あのときの玲、どうしようもないくらい落ち込んでたみたいだったから……」

「心配させてごめんね。けど、ありがとう」

「お礼は対抗戦で勝ってからにして。相手はボクシング強豪校なんだから」

 強豪校かぁ。

 僕の相手も、相当強いんだろうなあ……。

「どうしたのよ、ボーっとしちゃって」

「え? あ、いや、うん、なんでもない、んだけど……あのさ……」

 なんで勝手に口が動いちゃってんの? だめだ……だめだよ……おちつけ……けど――

「……玲於奈ってやっぱり、強い人が好きなの?」

 いっちゃったあああああああああ!

 バカバカバカバカ!

 僕のバカ!

「あ、いや! ご、ごめん、ちょっと、気になっちゃって……」

「は? まあ、強いボクサーは、まあ嫌いじゃないわ」

「そ、そうなんだ……」

「なによ、そうなんだ、って」

「い、いや、別に……」

「さっきから玲の言葉、“いや”“別に”ばっかりなんだけど」

「そ、そうかな? 別に何も――」

「ほら」

「そ、そうだね……ははは……」

 けどもし僕が……もし僕が、玲於奈が認めるくらい強くなることができたら――

“強い”? 

 強いって、何だろう。

 喧嘩に強いこと? 

 ボクシングで負けないこと?

“拳聖さんにあこがれて東京からこの定禅寺西に一人で入学してきたバカのせいだろうがよぉ”“お前は、お前が思ってるより、飛び切り強い人間だよ”

 そっか……何か僕、わかっちゃったような気がする。

「ねえ玲於奈。明日からまたスパーリングをやってくれないかな?」

 僕はもう覚悟を決めた。

「あんたバカなの? 今日これだけやられて、まだスパーリングやりたいって言うわけ?」

「そうだね。きっと君の言うとおり、僕はバカなのかもしれない」

 けどきっと、僕らしい強さって、きっとそのバカなところにあるのかもしれない。

「だめよ、基礎をしっかりとやらなくちゃ、話にならないわ」

「基礎をしっかりやりこめばいいんだよね?」

「はっ? ま、まあ……そうだけど……」

 よし、これで言質は取り付けたぞ。

 後はそう、ただ実行するだけなんだ。

 あの時、拳聖さんのボクシングを見て、この定禅寺西へ入学を決意したときのように。

「じゃあ、洗物とかは適当にシンクに突っ込んどいて。今日はもう、僕寝るから」

「え? あ、あんた何いってんの? まだ八時前――」

 僕は、そのまま寝袋へともぐりこんだ。


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