「次のゴングだ。準備はいいか?」
コーナーポストに寄りかかる拳聖さんの頭に、馬呉さんがヘッドギアを装着させる。
「そちらこそ」
「いちいち格好つけなくていいんだよお前は」
こちらは石神さんが美雄にマウスピースを噛ませた。
――カァン
拳聖さんと美雄のスパーリング。
小刻みにステップを入れ、肩や頭を忙しそうに動かす拳聖さん。
美雄の方はべた足のまま、左拳をくいくいと動かし、拳聖さんとの距離を測る。
大きく足を踏み鳴らして一歩を踏み出し、最初に拳を繰り出したのは美雄だった。
しかし拳聖さんはそれをスウェーバックで交わし、その拳をいなすようにして美雄の右に回りこむ。
「ほー、あの野郎、なかなかやるじゃねえか」
ロープに手をかけた石神さんもため息をつく。
「あれだけ体重の乗ったストレート、普通の奴だったらそのまんま青天井だぜ」
さらに美雄は左ジャブ、そして右ストレートとうなるような豪打を叩き込む。
その拳を、ボディーワークを駆使しながら軽々と避け続ける拳聖さん。
そして散弾のような美雄の拳をかいくぐり、あっという間に距離を詰め
「いよっと」
拳聖さんの左フックが美雄の右脇、背中に近いところに食い込んだ。
「かはっ……」
美雄の体は折れ、その手は止まる。
拳聖さんはまったく余裕の表情で美雄をコーナーに追い詰め、雨あられとショートアッパー、ショートフックを美雄の顔面、そしてボディーに叩き込んだ。
石神さんの怒号が飛ぶ。
「おら悠瀬! ガード上げろ! 手ぇ出せ! アマチュアは手数と威力が勝負なんだからな!」
――カァン
「やられたな……全然お話にならないって感じだ」
美雄はため息をつきながらヘッドギアを脱ぎ捨てた。
「そんなに卑下したものでもないさ。あの独特のリズムに、ステップからの全身全霊を込めたストレート、つうか正拳突きか。あれをまともに食らって立ってられるやつはそういない」
こちらは馬呉さんが拳聖さんのヘッドギアを外した。
「ただ、ボクシングには接近してからの攻防がある。それに、素手で突くのとはまた違った打ち方をグローブではしなくちゃならない」
ぽんぽん、励ますように、拳聖さんは美雄に近寄り肩をたたいた。
「気を落とすなよ。もうひと辛抱、練り直そう」
――バチン
「っつっ!」
リングを降りた美雄の背中を、一切の遠慮なしに叩いたのは玲於奈だった。
「あんたまでなんで玲みたいにうじうじしちゃってんのよ。お兄ちゃんとこの短い期間であれだけ渡り合えるなんて、そもそもがありえないんだから。自信を持ちなさい」
なんで……そんな感じで美雄に笑うんだよ……。
「はっ、褒めてもなんいもでてこないぜ」
美雄も……なんでそんなはにかんで笑うんだよ。
くそっ、くそっ。
※※※※※
「いい加減にしなさい!」
玲於奈は叫び、僕の目の前で手にしたパンチングミットをリングマットに叩きつけた。
「おいおいどうしたよ」
石神さんをはじめ、他の人たちも集ってきた。
「何怒ってんのかしらねえけどよ、お前だって知ってんだろ? 玲は初心者なんだからよ」
「初心者だから怒鳴ってんのよ! しっかりと基礎を守ってやれっていってんのに! あたしの言うこと全然聞かずに好き勝手なことやってるからよ!」
「ごめん……つい……」
けど僕自身は、それなりに基礎が身についてきたつもりだ。
僕が目指しているのは、拳聖さんみたいな“スウィート”なボクサーだ。
何度もスパーリングを繰り返す美雄と拳聖さんの姿を見ていると、あせってしまうし歯がゆさも感じたりする。
それなのに玲於奈は……。
「玲於奈」
リングの外で、ロープにもたれかかった拳聖さんが玲於奈に声をかける。
その声に、玲於奈は拳聖さんの下に近寄る。
「なあ、玲の今後の練習方針、ちょっと聞かせてもらえるか」
「始まってこの期間じゃ、基本が身につくとかどうとかそういう問題ですらないわ」
「――試合までもうそんな時間もない」
話に割り込むように、拳聖さんは口を開いた。
「まさかお兄ちゃん?」
拳聖さんは、穏やかに笑うとこういった。
「そう。スパーリングだ」
「だめよ」
玲於奈は、普段の玲於奈を知っている人間からすれば驚くほど冷静に言い放った。
「殴ることも殴られることも、その覚悟や意味を理解できていない男を、おいそれとリングにあげるほどあたしはバカじゃないわ」
殴る覚悟?
殴られる意味?
一体玲於奈は何を言ってるんだろう……。
「だからこそ、さ。結局お前の言うそれは、リングで相手と向かい合って初めて知ることができるものなんだ」
玲於奈は、しかし拳聖さんから一歩も引くことはない。
「無責任なことを、あたしは言えない。そもそも、この中で一番軽いはずの美雄ですらライト級よ? 一体誰がスパーリングパートナーを――ちょ、ちょっとやめてよ!」
拳聖さんは、反応を楽しむように玲於奈のわき腹をちょいちょいつつく。
「そろそろ本気出してもいいんじゃないか? なあ、“シュガー”」
「ちょっと! 何であたしが玲のスパーリングパートナー勤めなくちゃいけないのよ!」
玲於奈が……“シュガー”?
それに……僕のスパーリングパートナーに?
「冗談じゃないわよ。あたしは嫌よ」
「決まりだ」
ポンポンポン、拳聖さんはバンデージにくるまれた手で玲於奈の頭を叩き、とろけそうな視線と甘いスマイルで玲於奈の目を見た。
「わ、わかったわよ……お兄ちゃんがどうしてもって言うんだったら……」
――
「なによ……じろじろ見ないでよ……」
十数分後、タンクトップにショートパンツ、バンデージに拳を固めた玲於奈が姿を現した。
「久しぶりだな、その格好の玲於奈を見るのは」
ヒュウ、はやすように口笛を吹く拳聖さん。
「ええ? こうしてみたらなかなか、やっぱりお前さんも女なんだねえ。え?」
こちらはニヤニヤ笑いが止まらない、といった風な石神さん。
「そういうやらしい目をやめろっていってんの! この変態! 気持ち悪い! って、何よ玲。なにボーっとしちゃってんのよ」
「えっ? あ、いやいやいやいや! そんなことより、早くスパーしようよ!」
危ない危ない……ちょっとだけ見とれちゃった……。
――
――カァン
僕たちはグローブを合わせた。玲於奈はスパーリング用の、フルフェイスのヘッドギア。
これなら、うん、女の子相手だって罪悪か――
「――ぶぁっ?」
「ゴングがなったら試合開始よ! ぼやぼやしてるんじゃない!」
玲於奈のスナッピーな左ジャブが、容赦なく僕の顔面を捉える。
そ、そうだ、相手は普通の女の子じゃない。
僕が強くなったってことを、玲於奈に認めさせてやる!
ジャブで距離――えっ?
だめだ!
距離どころじゃない!
的を定めるので精一杯だ!
落ち着け、よく見ろ、考えろ。あれだけガードが下がっているんだ、とにかく追いつ――
「ぎっ!」
ってえっ!
何で?
こっちのジャブは当たらないのに?
リーチはそんなにか――
「――ぐっ!」
「おら玲! 拳ばっか見てちゃだめなんだよ!」
「固くなっちゃだめっす! 相手の動きにしっかり反応して!」
石神さん……馬呉さん……わ、わかるんだけど――
――ボンッ
「こぉ……」
ボ、ボディーフック……。
い……痛い……。
以前不良たちに殴られたのも痛かったけど……それとは種類が全然違う……おなかの中に手を突っ込まれて内臓をかき回されたみたいだ……。
何とかもう一度距離を――
「うあらっ!」
お、大振りすぎ?
玲於奈は上半身を丁寧にゆすりながら後へ下がる。
くそ、やりづら――
?
な、なんだこの左手、邪魔――
「――くあっ!」
何が起こったかはわからなかったけど右ストレート?
ああもおっ!
全然当たんない!
「ばっかやろ! 完全に左だけでコントロールされてるじゃねえか!」
「玲! そんなあからさまなフェイクに引っかかっちゃだめだ!」
石神さん、美雄……。
けどどうしても意識――
「――はっ! ふぁっ!?」
また左――とにかく手数――だめだ、え?
また左?
見ちゃいけないけど――
「バカ野郎ォ! そんな顎あげちゃ――」