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第21話

 電車に乗り込んだ僕たちは、石切山先生からやや離れたところに席を見つけて座っていた。

 がたごとと揺れる車体は、時折くいくいと玲於奈の体を僕に押し付けてくる。

「拳聖さんのこと叩いたこと……後悔してるの?」

 僕の問いかけに耳を傾けようともせず、玲於奈はうなされたように言葉を呟き続ける。

「……いくら一年近く……お兄ちゃん……まさかね……ありえない……」

 そう呟くと、玲於奈はそのまま押し黙ってしまった。

 え?

 小さな手が僕の手に絡んだ。僕の腕にすがりつく玲於奈の白いうなじが見えた。

「……お願い……ちょとだけでいいから……こうしていて……」


――


「対抗戦の開催……しかも、フライとウェルターがなし、ですか……」

 ミットやサンドバッグを叩く音、ロープが空を切り裂く音、まるで地下鉄のホームにいると錯覚するような大きな音が響く。

 ここが興津高校ボクシング部の部室かあ。

 そういえばうちの学校はまだ本格的に活動を再開していないから、練習風景を見るのは始めてだ。

「ずうずうしい、身勝手なこととは承知しています」

 石切山先生が、その巨体を小さくして体を折り曲げる。

「しかし、どうか一つよろしくお願いします」

「あ、よ、よろしくお願いします!」

 僕もあわててそれに続いた。

「しかし……ですねえ……」

 興津高校の先生は、いらだったように時計を眺める。

「あれだけの事件ですからね。私たち高校ボクシングに関わるものたちは、本当にいろんな人たちから白い目で見られるようになりましたよ。そのことはご存知ですかね」

 うわー、なんかすごい嫌味ったらしい言い方。

 その通りなんだけど、言い方ってあるよね?

「それに聞いたところによると、佐藤拳聖君、彼ボクシングをやめたそうじゃないですか。そういった点においても石切山先生、あなたに対する見方は相当厳しい事もご存じですよね」

「はい……」

「まああなたはボクシング部の顧問としての活動を禁止されているとか。それも致し方のないことなのではないですかね」

 そうか……石切山先生が手助けできないといったのは、そういう理由があったのか……。

「ま、せめて彼でもいればインターハイ予選や東海大会の布石にもなったのでしょうが」

 そういうと、興津高校の先生は僕のほうをちらり、と見た。

「我々には、対抗戦を開催するメリットがまったくないのですよ」

 カチーン、ときたよ。

 確かに僕は素人だけど、僕は参加しないからそもそも関係ないし。

「まったく、拳聖君も、定禅寺西なんぞに行かずにうちに来ていれば、こんなことにもならなかったで――おっと、今言ったところで、せんのない話ですがね」

 やばっ!

 僕は玲於奈の右手の制服を掴んだ。

 僕だって……僕だって悔しいよ!

けど、ここで怒ったら、何もかもおしまいじゃないか!

「わが高には拳聖君がおらなくとも、ウェルター級には不動のエースが育ちましたからな」

 ニヤニヤと笑いながら、その先生は、さっきからずっとすさまじい音でバッグを叩いている男の人を見た。

 その男の人はバッグを叩く手を止め近づ――でかっ!

 てか、長っ!

「先生、さっきから何の話っすか」

 え、えっと……たしか、ウェルターって言ってたから、体重は六十四から六十九キロくらい? 

 けど身長は……馬呉さんと同じくらい? 

 いや、細い分、もうちょっとあるようにも見える。

 何より、腕長っ! 

 きっとリーチで言ったら馬呉さんよりも断然長いぞ。

「紹介……いや、必要ないかもしれませんな。うちの主将です。ほら、自己紹介しろ」

「ああ、俺? 半田当真。ちーっす」

 うわー、感じわるー。

 なんだよ、うちの部活のこといろいろ言ったくせに、どう見たってこの人の、人と接する態度、しっかりしつけられてないじゃないか。

「つーかマジで対抗戦やる気? 佐藤拳聖もいないんだろ? やる価値あんの?」

「それはあんまりではないかな」

 石切山先生は怒りを抑えきれない、とでもいう風に顔を上げた。

「確かに我々の部活がやったことに弁解の余地はない。だがまた新たなメンバーが、こうして活動をスタートさせようとしている。それをそういう風に言うのは、黙っておれん」

「へいへい。すんませんでしたね。けどよ、やる価値なんか一ミリもねえよ、こんなもん」

 へらへらへら、半田は調子に乗って口を開き続ける。

「だいたい俺が誰だかわかってんの? 国体も選抜も、そんでこんどはインターハイで――」

「――吼えるじゃん」

 えっ? この声って……。

「て、てめえはっ!」

「俺がいない間に、高校二冠か。はっ、お前にしちゃあ頑張った方か」

 ポスン、拳聖さんは半田の方を見ることもなく、サンドバックに軽く拳を合わせた。

 け、拳聖さんが……なんでここに?

 ザワザワ「あ、あいつ……間違いねえ」「“シュガー”……」「マジ! 俺初めて見たよ……」「え? けど、ボクシングやめたって……だから俺興津来たのに……」

「拳聖!?  何でこんなところに!」

「んなでかい声出す必要ないだろ、イシさん」

「お兄ちゃん……お兄ちゃんが何で……」

「“お兄ちゃん”? どういうことだ、拳聖」

「まあまあ、詳しくは後で話すからさ。そんなことより――」

 拳聖さんは髪の毛を掻きあげ、飛び切り甘い笑顔を見せた。

「久しぶりだな、半田。相変わらずの骨骨ロックだな」

「う、うるせえっ!」

「あらっ?」

 半田に突き飛ばされて、興津の先生はひっくり返った。

 半田は拳聖さんに詰め寄る。

「しっかし、いつまでお前は俺の周りでうろちょろするのかね。たしか戦績は……俺の九勝〇敗だったっけか?」

「い、いつまで昔のこと話してやがんだ? ボクシングやめたお前がふらふら女と遊んでる間になあ、俺ぁ死ぬほど練習して来たんだよ!」

「わかったわかった。暑苦しいから近寄んじゃねえよ。男の汗になんて興味はねえよ。ところで、お前えらい吹き上がってくれたな。さすがに調子乗りすぎじゃねえのか」

「あ、あ、あああ? ほ、ほ、本当のこ――」

「――お前ごときに、定禅寺西を舐めさせねえよ」

 その瞬間、凍りつくような視線が半田を刺した。

「っく……」

 ようやく、半田のその減らず口は止まった。

「あたたた……と、とにかく、まともにメンバーのそろわないような高校と対抗戦やっても、こちらにメリットがないのは間違いないからね……」

 興津の先生が、腰をさすりながら起き上がってきた。

「せめて、きちんと五対五で戦える環境がなくちゃ話にならんよ。悪いがこの話は――」

「――メンバーなら、そろったぜ」

 え?

「なあ半田。俺がいなかったから全国優勝できた、なんて、いくら事実でも格好悪いよな」

「な、なんだと? お、お前が勝手にボクシングやめただけじゃねえか! 今の俺なら――」

「――やるよ、ウェルター級最強の称号」

 え?

「この対抗戦、お前が俺に勝てたらな」

 拳聖さんが!? またリングに!?

 ザワザワザワ「シュ、シュガーがボクシング復帰?」「ま、まじで? しかも半田さんと?」「こ、こんなもん、チケット販売で金とってもいいくらいだぜ?」

「ぬう……上等じゃねえかこの野郎!」

 狂ったように雄たけびを上げる半田を尻目に、拳聖さんは玲於奈の元に近づくと、真綿のように優しくその頬に触れた。

「……お兄ちゃん……いいの?」

「効いたぜ、あのビンタはよ。けど、おかげで吹っ切れたみたいだ」

 拳聖さんは、顔をしかめて左頬をさすった。

 あれ?

 なんだろ……石切山先生……。せっかく拳聖さんが復帰したのに……複雑な表情……。

「――ボクサーとしての俺のあり方は、リングに立つ俺が決めたいんだ」

 何かいいたげな石切山先生に、にやりと拳聖さんは微笑んだ。

「あんたは黙って見ていてくれればいい。半田ごときに負ける俺じゃないさ」

 石切山先生は、渋い表情で頷いた。あ、今度は拳聖さんが、僕の顔を見てる。

「フッ、何もさ、泣くことはないだろ」

 え? 

 あ、ちょ……。

 やだな、ほっぺたのところが濡れてるよ僕、泣いてたんだ。

「ちょ、ちょーっと待てーいっ!」

 すっかり蚊帳の外の興津の先生。

「半田! 石切山先生も! 勝手に話を進めるんじゃない! 何度も言ったが、きちんと人数もそろわない対抗戦の意味なんかない!」

「だからさ、そろったって言っただろ」

「き、君はウェルターだろ? フ、フ、フライ級はどうするんだ?」

 ん? 

 拳聖さんが、僕の方に手を乗せる。

 ……はは、まさかね……。

 うん、拳聖さんの友達に、きっとフライ級くらいの人がいたりするんだよ、うん。

 僕みたいな素人が――

「――佐藤玲、うちの新主将で、フライ級代表だ」

 え? ええええええええええええ!?

「……ええい! こうなったら、定禅寺西と興津の力の差、はっきりと示してやりますからな!」

 興津の先生の言葉に一切動じることなく、拳聖さんは、クールに笑った。

「好きにすればいい。俺たちは、“常勝・定禅寺西”を払い戻すだけさ」


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