「怖い思いをさせちまって、すまなかったな」
石神さんは、ストレートの紅茶を一口すすった。
水族館のカフェテリア、石神さんと向かい合う僕は、目の前のオレンジジュースに手をつけることもなく、石神さんに質問をする。
「あ、あの……さっきの人たちが言ってた……“マノ――”何とかって一体……」
「“マノス・デ・ピエドラ”、“石の拳”。俺が昔この辺で暴れまわってた頃のあだ名さ」
「け、けど、石神さんは喧嘩をやめて、ボクシングを始めたんですよね?」
石神さんは待ってましたと、何のてらいも屈託もない、
明るい笑顔を浮かべた。
「出合っちまったんだよ。本物の才能ってやつにさ」
本物の才能? そ、それってもしかして――
「もしかして、それって佐藤拳聖さんのことですか――にゃ?」
我が意を得たり、と石神さんの笑顔は、まるで子どものように無邪気なものになった。
「この辺一帯で俺に勝てる奴なんかいなくなっちまった時、“シュガー”なんてスカしたあだ名の天才ボクサーがいる、なんて耳にしてよ。そんで俺はジムに殴りこみをかけたんだ」
殴りこみ?
それはまた物騒な……。
「そ、それで結果は……」
「ボッコボコさ、この俺が、な。あっと、一応言っとくが、拳聖さん以外のボクサーは全員ワンパンKOしてやったんだぜ?」
ニィ、石神さんは口元に照れたような笑みを浮かべる。
「そん時俺ぁ、今までどんだけ狭い世界にいたのかって思い知らされちまった。そんでこの人と一緒にボクシングがやりてえ、そう思ってボクシングを始めて定禅寺西に来たんだ」
そっか……この人も僕とおんなじなんだ。
僕とは一八〇度違うけど、拳聖さんって言うとびきり“スウィート”なボクサーに出会ってしまったから……。
ん?
ということは――
「やっぱり石神さんがボクシングをやめたのは……佐藤拳聖さんがリングを去ったから――」
「――もう心が燃えねえ、ただそれだけさ」
僕がそう言うと、石神さんはばつが悪そうにベレー帽を目深にかぶった。
「“マノス・デ・ピエドラ”は死んだのさ」
――
夕焼けの見える海沿いのベンチ、石神さんと二人で並んで座る。
ようやく今日のデートも終わりか……。
これで石神さんは、とりあえずは対抗戦に出場してくれる。
けど……やっぱり僕の心にはもやもやしたものが残る。
あんな風にボクシングの事を――
「ガータ、君さえよければ、これから俺のうちに来ないか?」
へっ?
や、やばいっ!
やばすぎるっ!
は、はやくデートを切り上げなきゃ!
「私も今日は楽しかったにゃ。けど、私、もう帰らなくちゃいけないのですにゃ」
「そうか。それは仕方ないな。もしよかったら……また俺と会ってくれないか?」
「じ、実は私、今度引っ越さなくちゃならないんですにゃ」
その言葉に、石神さんは心底驚いたような表情を浮かべた。
「どこに?」
これって石神さんを騙してるってことなんだよな……。
うう……ものすごく心が痛い……。
「う、うん……と……アイルランドにゃ」
「君がいなくなったら、この心の空白をどのようにして埋めればいいのか……」
石神さんはがっくりと肩を落とした。
「俺には何の生きる目標もなくなってしまいそうだ……」
石神さんのその言葉に、どうして僕の心がもやもやしているのかがわかった。
だって、石神さんは、自分の心に嘘をついているんだもん。
「さっき、ボクシングの事を話している石神さんの横顔、ものすごく輝いていました」
そう、鈍感な僕にだってわかるくらい、石神さんの顔が物語っていたもん。
石神さんは――
「石神さんには、ボクシングに対する情熱がまだ残ってるんですよ」
「悪いが、ガータ――」
「佐藤拳聖さんがいなくなって目標を見失ってしまったのかもしれないですけど、誰のものでもない石神さんのボクシングを、心の底から楽しんでほしいんです」
そう、だから――
「僕は、リングに上がる石神さんの姿が見たいです。もう一度、リングに上がってほしいです」
「“僕”……?」
やっばあああああああああい!
つ、ついつい地がでちゃったああああ!
「な、生意気いってごめんなさいにゃ!」
は、早く帰らなくちゃ!
「ア、アイルランドから手紙送るにゃっ! そ、それじゃあまた――」
「――君の言うとおりさ」
へ?
「俺は、目標を見失って、ふらふらしてたんだよ。“現実”を受け入れる、なんて気持ちわりぃこと言いながらさ。けど君の言葉を聞いて、目が覚めたぜ。俺ぁ、やっぱりボクサーなんだ」
石神さんは照れながら、だけど本当に気持ちのいい笑顔を見せてくれた。
「今度、他の学校との対抗戦があってな。見に来てくれ、というわけにもいかねえだろうが、動画かなんかで送らせるよ」
石神さんは、恥ずかしそうに鼻の下をかいて言った。
「もう一度、ボクシングに真剣に向き合ってみせるよ。ガータ、君のいうようにな」
そして、にいっ、って笑うと、拳を高々と突き上げた。
「対抗戦での勝利を、君に捧げるよ。“エストマーゴ・デ・ピエドラ”としてのな」
ワイルドな石神さんの表情が、男の僕から見てもしびれるほどに格好良く見えた。
僕は石神さんの、たくましい体にそっと抱きついた。
女の子ならきっとこうしているはずだ。
石神さんはそれを受け止め、僕の髪の毛を優しく撫でた。
「ミ・ガータ、見てろよ。アイルランドにまで、俺の名前を響かせてやるからな」
――
「やっちゃったな……いろんな意味で……」
僕のマンションで、テーブルに座り頭を抱える美雄。
「ええそうね……いろんな意味で」
同じく頬杖をつきあげ潮をほおばる玲於奈。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 言われた通りのことはしたし、きちんと石神さんもボクシング部に復帰するって言ったじゃない!」
「その点は、まあ褒めてあげるわ。けど……」
「ああ。最後のアレは……」
「あそこでさっさと別れておけば……きっとあいつは、レイコちゃんを想い続けるわよ」
「まあ、いっそそっちの道に行ってもいいんじゃね? 俺たちは止めないよ」
ひどい!
ひどすぎるっ!
「もしかしたらあんたにも、新しい道が開けるかもよ?」
あんまりだーっ!
※※※※※
「んで、俺を入れて後何人そろえりゃいいんだ?」
三日かけて片付けた部室の机で、石神さんがトニックウォーターを飲みながら言う。
「そうね。あと……三人って所ね。とりあえず確定してるのは……」
こちらは定禅寺西の制服姿の玲於奈。
どういうわけか石神さんは気が付いていないみたいだけど、当然女の子。
「あ、俺がライト級か、ライト・ウェルター級のどっちかに出るてことですかね」
こちらはもはや完全にボクシング部になじみ始めた美雄。
「成程。んじゃ俺が出るとしたらライト・ウェルターかウェルター級ってとこか。残るは――」
そう言うと、石神さんは立ち上がる。
「“ミ・ガータ”との約束だ。意地でもやるぜ、俺は」
……なんだか、背筋に冷や汗をかいたような気がしたのは気のせいだろうか。