「あ? あいつは我が校が誇るフードファイター、石神拳次郎に決まってんだろ?」
「フードファイター?」
「ああ。放課後食堂フードファイト。あいつは負けなしのトップファイターなんだよ」
「フ、フードファイトって、じゃ、じゃあボ――「ボクシングはどうなったのよ!」」
「れ、玲於奈!?」
「フードファイターだかなんだか知らないけど! あいつはボクサーなんじゃなかったの?」
「ふっ、わかってねえな。確かにあいつは、将来を嘱望されたボクサーだったかも知れねえ。けど見ろよ、今のあいつの、“エストマーゴ・デ・ピエドラ”、“石の胃袋”の姿を」
言われるがままに僕たちは石神さんの姿を見る。
「おら次ぃ!」
叫べば揺れる、顎周りの肉。滴り落ちるべっとりとした汗、なんだかわからない液体。
「石神選手、ハンバーガーに手をかけますゥ!」
貪り食うそのさまは――
「「――ブタにしか見えないっ!」」
「最高の褒め言葉だな。今あいつは、まさしく我が校の伝説への階段をほがわっ!?」
「もうどうだっていいわよっ!」
玲於奈の拳がその先輩のみぞおちに食い込んだ。ああもうもう何がなんだか……。
「ふう、ふう、ふごっ!」
石神さんの目の前で、苦しそうにスパゲッティをほおばっていた相手選手? が、苦しそうな声を上げ、そしてイスから崩れ落ちた。
「“ガーノッ!”」
その瞬間、えと……何語だろ……とにかく日本語以外の雄たけびをあげて、石神さんらしき肉の塊は右手を突き上げた。レフェリーらしき生徒が、その腕を取って宣言した。
「勝者、“エストマーゴ・デ・ピエドラ”! “石の胃袋”! 石神拳次郎!」
な、なんだ? 割れんばかりの歓声、そして地響きのように足元が踏み鳴らされる。
すごい迫力だ……。
ああ、これが俗に言う“ララパルーザ”ってやつか。
「“エストマーゴ・デ・ピエドラ”! “エストマーゴ・デ・ピエドラ”!」
ああ、僕たちは今目の当たりにしているのだ。
伝説の男が、まさしく伝説の階段を更なる高みへと駆け上っているのを。
我々の目の前、伝説のチャンピオンが――って
「「ちがーう!」」
「? だれだ、てめえら?」
――
「――成程な。まあ事情はわかったよ」
食後の熱いコーヒーを飲みながら、石神さんは頷いた。
「へっ、だが悪いな。俺は静岡一のフードファイターになって、テレビ静岡の『くさデカ』に――」
「何が新しい目標よっ!」
ばんっ、玲於奈が机を思い切り叩いた。
「あんたがボクシングにかける情熱はそんなもんだったの?」
「なんだと……?」
うわ……すごい眼光だ……。
さっきまですごく陽気にへらへら笑ってたのに……。
「それとお前らと何の関係がある? やらねえったらやらねえんだ。とっとと帰んな」
僕は石神さんの前に立った。
「できません。僕たちは対抗戦に出てボクシング部を復活――うわっ!」
石神さんは急に立ち上がると、僕の胸倉をあっという間に掴みあげていた。
「ちょっと! 何すんのよ!」
「なんも知らねえガキどもが勝手なこと言ってんじゃねえ!」
ちっ、石神さんは舌打ちをして椅子に座りなおした。
「悪かったな……。つい感情的になっちまった」
「あ、いえ。大丈夫ですから」
「ただな、もう俺たちの中では終わったことなんだよ。いまさら外野にわちゃわちゃ引っ掻き回されたくねえんだ。“現実”てものを、よく考えな」
「わかっています、なんて軽々しく断言するつもりはありません」
僕は袖の埃を払い、石神さんの前にまっすぐに立った。
「それでも、僕はなりたいんです。佐藤拳聖さんのような、“シュガー”なボクサーに」
拳聖さんの名前に、石神さんは野生動物のようにピクリと反応する。
「おめえ、拳聖さんのことを知ってるのか……?」
僕は、精一杯の力をこめてうなずいた。
「僕の憧れの人です。あの人みたいなボクサーになりたくてこの定禅寺西に入学したんです」
石神さんは、しばらく僕の目をじっと見つめたかと思うと、ちっ、小さくしたうちをした。
「詫びと言っちゃあなんだが……条件がある」
「え?」
「条件守ったら、対抗戦だけでも出てやるっつってんだよ!」
やった!
なんだ、この人だって話せばわかって――
――
「……どうすんのよ……」
「……こっちが聞きたいくらいだよ……」
「あんた女友達とかいないの?」
「こっちに引っ越してきたばっかりだもん。ていうか、玲於奈こそいないの?」
「は? 冗談言わないでよ。あたし、クラスの下らない連中と接点なんてほとんどないから」
「だったら、玲於奈が――」
「冗談じゃないわよっ! だれがあんな男に! ああああああ、寒気がするわ……」
玄関前のベンチの前、玲於奈は鬼の形相で叫ぶと、悪寒に体を震わせた。
「あれ? 何やってんだよ、二人とも」
声のする方向を見れば、講習帰りの美雄の姿。
――
「……いやー、まいったな……」
ベンチに座りこんだ美雄もため息をついた。
「美雄とか、知り合いに頼めないの? 美雄なら、女友達たくさんいそうだけど」
「いやいやいやいや! 勘弁してよ! 俺だって友人関係壊したくないよ!」
「だいたい、あの男が節操なさすぎなのよ。何であたしたちがあの男に――」
そうだよなあ……こればっかりは……なんたって、石神さんの条件ってのが――
「――女の子紹介しなくちゃならないのよ」
「けど、結構ロマンティストなんだね。心が震えるような、ええと……“エル・デスティナード”だったっけ?」
「なにが“運命の人”よ! 何でいちいちスペイン語!? イベリコブタかっつーの!」
地面に足の裏を叩きつけるようにして玲於奈は立ち上がった。
「イライラしたらお腹すいちゃったわ。夕ご飯食べて、もう一度作戦会議よ! じゃあね、悠瀬」
――
「んーと……野菜はもう少しだけあったから……」
買い物客でごった返すスーパーマルトモの食材コーナー、僕は買い物かごを片手に食卓の色どりに思いを巡らせる。
ジャガイモをいくつかと牛肉、しらたきを買って肉じゃがでも作ろう。
あとはキュウリが何本か会ったはずだから、それを塩もみして浅漬けにして、わかめの味噌汁も作ろうかな。
うんそうだ、シジミもついでに買っておこう。
そうだな……かまぼこもおいしいんだ。
ついつい買いすぎちゃうよな。けどみんな安くておいしいんだから、いいよね?
「あ、これも買って」
「……なにこれ?」
「あんた何言ってるの? “あげ潮”知らないなんて本当にあんた静岡住む気あんの?」
「知らないよそんなお菓子!」
「あんたのその発言、全静岡県民を敵に回す発言よ。とにかく早く買ってきなさい」
買うのは僕なのに……。
――
「なによ、なんでそんな暗い表情してんのよ」
買い物を終え、連れ立て歩く僕と玲於奈。
「いや何か疲れちゃってさ。毎日毎日」
「情けないわね。こんな美少女と買い物しながら、この素晴らしい風景を歩けてるのよ?」
僕ははたと足を止める。そういえば入学してからどたばたしていて、景色を眺める心の余裕なんてなかったな。
鼻をくすぐる風に、僕は足を止めて大きく深呼吸した。
この香りって――
「潮の香りよ。東京の汚れた空気しか吸ってないあんたには、何よりのご馳走でしょ?」
僕は素直にうなずくしかなかった。
改めて、ここが海に近い場所なんだって気が付く。
ふと見上げると、きれいな夕焼けに染まる富士山の姿。
その下に広がる、夕陽を反射する油絵の具を溶かしたような海。
僕の視線の先を追う玲於奈は、自信たっぷりに言った。
「疲れだって吹っ飛ぶでしょ?」
玲於奈はくるりと後ろを振り向いて、にっこりとほほ笑んだ。
「ここが、お兄ちゃんとあたしの生まれ育った町なんだから」
拳聖さんの、玲於奈の生まれ育った町、か。
「うん。君の言う通り。すごく綺麗だ」
僕は何のてらいもなく、ストレートに表現した。
雄大さと繊細さが入り混じった、新鮮さと懐かしさがこみあげてくるような風景。
そしてリラックスした時だけ見せる、玲於奈の女の子らしい表情――えっ?
ち、違うよ?
べ、別に玲於奈のことそんな風に――
「――何ボーっとしてんのよ」
「へっ? い、いや……その……」
「まったく。さ、早く帰るわよ。ご飯食べて、“あげ潮”食べながら作戦会議するんだから」
僕は頷いて、玲於奈の後について歩いた。
当然、食材は僕が運ぶんだけどさ。
ん?
玲於奈が急に立ち止まったぞ?
あれは……。
「拳聖さん!」