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第16話

「あ? あいつは我が校が誇るフードファイター、石神拳次郎に決まってんだろ?」

「フードファイター?」

「ああ。放課後食堂フードファイト。あいつは負けなしのトップファイターなんだよ」

「フ、フードファイトって、じゃ、じゃあボ――「ボクシングはどうなったのよ!」」

「れ、玲於奈!?」

「フードファイターだかなんだか知らないけど! あいつはボクサーなんじゃなかったの?」

「ふっ、わかってねえな。確かにあいつは、将来を嘱望されたボクサーだったかも知れねえ。けど見ろよ、今のあいつの、“エストマーゴ・デ・ピエドラ”、“石の胃袋”の姿を」

 言われるがままに僕たちは石神さんの姿を見る。

「おら次ぃ!」

 叫べば揺れる、顎周りの肉。滴り落ちるべっとりとした汗、なんだかわからない液体。

「石神選手、ハンバーガーに手をかけますゥ!」

 貪り食うそのさまは――

「「――ブタにしか見えないっ!」」

「最高の褒め言葉だな。今あいつは、まさしく我が校の伝説への階段をほがわっ!?」

「もうどうだっていいわよっ!」

 玲於奈の拳がその先輩のみぞおちに食い込んだ。ああもうもう何がなんだか……。

「ふう、ふう、ふごっ!」

 石神さんの目の前で、苦しそうにスパゲッティをほおばっていた相手選手? が、苦しそうな声を上げ、そしてイスから崩れ落ちた。

「“ガーノッ!”」

 その瞬間、えと……何語だろ……とにかく日本語以外の雄たけびをあげて、石神さんらしき肉の塊は右手を突き上げた。レフェリーらしき生徒が、その腕を取って宣言した。

「勝者、“エストマーゴ・デ・ピエドラ”! “石の胃袋”! 石神拳次郎!」

 な、なんだ? 割れんばかりの歓声、そして地響きのように足元が踏み鳴らされる。

 すごい迫力だ……。

 ああ、これが俗に言う“ララパルーザ”ってやつか。

「“エストマーゴ・デ・ピエドラ”! “エストマーゴ・デ・ピエドラ”!」

 ああ、僕たちは今目の当たりにしているのだ。

 伝説の男が、まさしく伝説の階段を更なる高みへと駆け上っているのを。

 我々の目の前、伝説のチャンピオンが――って

「「ちがーう!」」

「? だれだ、てめえら?」


――


「――成程な。まあ事情はわかったよ」

 食後の熱いコーヒーを飲みながら、石神さんは頷いた。

「へっ、だが悪いな。俺は静岡一のフードファイターになって、テレビ静岡の『くさデカ』に――」

「何が新しい目標よっ!」

 ばんっ、玲於奈が机を思い切り叩いた。

「あんたがボクシングにかける情熱はそんなもんだったの?」

「なんだと……?」

 うわ……すごい眼光だ……。

 さっきまですごく陽気にへらへら笑ってたのに……。

「それとお前らと何の関係がある? やらねえったらやらねえんだ。とっとと帰んな」

 僕は石神さんの前に立った。

「できません。僕たちは対抗戦に出てボクシング部を復活――うわっ!」

 石神さんは急に立ち上がると、僕の胸倉をあっという間に掴みあげていた。

「ちょっと! 何すんのよ!」

「なんも知らねえガキどもが勝手なこと言ってんじゃねえ!」

 ちっ、石神さんは舌打ちをして椅子に座りなおした。

「悪かったな……。つい感情的になっちまった」

「あ、いえ。大丈夫ですから」

「ただな、もう俺たちの中では終わったことなんだよ。いまさら外野にわちゃわちゃ引っ掻き回されたくねえんだ。“現実”てものを、よく考えな」

「わかっています、なんて軽々しく断言するつもりはありません」

 僕は袖の埃を払い、石神さんの前にまっすぐに立った。

「それでも、僕はなりたいんです。佐藤拳聖さんのような、“シュガー”なボクサーに」

 拳聖さんの名前に、石神さんは野生動物のようにピクリと反応する。

「おめえ、拳聖さんのことを知ってるのか……?」

 僕は、精一杯の力をこめてうなずいた。

「僕の憧れの人です。あの人みたいなボクサーになりたくてこの定禅寺西に入学したんです」

 石神さんは、しばらく僕の目をじっと見つめたかと思うと、ちっ、小さくしたうちをした。

「詫びと言っちゃあなんだが……条件がある」

「え?」

「条件守ったら、対抗戦だけでも出てやるっつってんだよ!」

 やった! 

 なんだ、この人だって話せばわかって――


――


「……どうすんのよ……」

「……こっちが聞きたいくらいだよ……」

「あんた女友達とかいないの?」

「こっちに引っ越してきたばっかりだもん。ていうか、玲於奈こそいないの?」

「は? 冗談言わないでよ。あたし、クラスの下らない連中と接点なんてほとんどないから」

「だったら、玲於奈が――」

「冗談じゃないわよっ! だれがあんな男に! ああああああ、寒気がするわ……」

 玄関前のベンチの前、玲於奈は鬼の形相で叫ぶと、悪寒に体を震わせた。

「あれ? 何やってんだよ、二人とも」

 声のする方向を見れば、講習帰りの美雄の姿。


――


「……いやー、まいったな……」

 ベンチに座りこんだ美雄もため息をついた。

「美雄とか、知り合いに頼めないの? 美雄なら、女友達たくさんいそうだけど」

「いやいやいやいや! 勘弁してよ! 俺だって友人関係壊したくないよ!」

「だいたい、あの男が節操なさすぎなのよ。何であたしたちがあの男に――」

 そうだよなあ……こればっかりは……なんたって、石神さんの条件ってのが――

「――女の子紹介しなくちゃならないのよ」

「けど、結構ロマンティストなんだね。心が震えるような、ええと……“エル・デスティナード”だったっけ?」

「なにが“運命の人”よ! 何でいちいちスペイン語!? イベリコブタかっつーの!」

 地面に足の裏を叩きつけるようにして玲於奈は立ち上がった。

「イライラしたらお腹すいちゃったわ。夕ご飯食べて、もう一度作戦会議よ! じゃあね、悠瀬」


――


「んーと……野菜はもう少しだけあったから……」

 買い物客でごった返すスーパーマルトモの食材コーナー、僕は買い物かごを片手に食卓の色どりに思いを巡らせる。

 ジャガイモをいくつかと牛肉、しらたきを買って肉じゃがでも作ろう。

 あとはキュウリが何本か会ったはずだから、それを塩もみして浅漬けにして、わかめの味噌汁も作ろうかな。

 うんそうだ、シジミもついでに買っておこう。

 そうだな……かまぼこもおいしいんだ。

 ついつい買いすぎちゃうよな。けどみんな安くておいしいんだから、いいよね?

「あ、これも買って」

「……なにこれ?」

「あんた何言ってるの? “あげ潮”知らないなんて本当にあんた静岡住む気あんの?」

「知らないよそんなお菓子!」

「あんたのその発言、全静岡県民を敵に回す発言よ。とにかく早く買ってきなさい」

 買うのは僕なのに……。


――


「なによ、なんでそんな暗い表情してんのよ」

 買い物を終え、連れ立て歩く僕と玲於奈。

「いや何か疲れちゃってさ。毎日毎日」

「情けないわね。こんな美少女と買い物しながら、この素晴らしい風景を歩けてるのよ?」

 僕ははたと足を止める。そういえば入学してからどたばたしていて、景色を眺める心の余裕なんてなかったな。

 鼻をくすぐる風に、僕は足を止めて大きく深呼吸した。

 この香りって――

「潮の香りよ。東京の汚れた空気しか吸ってないあんたには、何よりのご馳走でしょ?」

 僕は素直にうなずくしかなかった。

 改めて、ここが海に近い場所なんだって気が付く。

 ふと見上げると、きれいな夕焼けに染まる富士山の姿。

 その下に広がる、夕陽を反射する油絵の具を溶かしたような海。

 僕の視線の先を追う玲於奈は、自信たっぷりに言った。

「疲れだって吹っ飛ぶでしょ?」

 玲於奈はくるりと後ろを振り向いて、にっこりとほほ笑んだ。

「ここが、お兄ちゃんとあたしの生まれ育った町なんだから」

 拳聖さんの、玲於奈の生まれ育った町、か。

「うん。君の言う通り。すごく綺麗だ」

 僕は何のてらいもなく、ストレートに表現した。

雄大さと繊細さが入り混じった、新鮮さと懐かしさがこみあげてくるような風景。

 そしてリラックスした時だけ見せる、玲於奈の女の子らしい表情――えっ?

 ち、違うよ? 

 べ、別に玲於奈のことそんな風に――

「――何ボーっとしてんのよ」

「へっ? い、いや……その……」

「まったく。さ、早く帰るわよ。ご飯食べて、“あげ潮”食べながら作戦会議するんだから」

 僕は頷いて、玲於奈の後について歩いた。

 当然、食材は僕が運ぶんだけどさ。

 ん? 

 玲於奈が急に立ち止まったぞ? 

 あれは……。

「拳聖さん!」


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