「そっか、そんなことがあったんだ」
からん、空になったグラスの中、氷が乾いた音を立てた。
「その結果がこれってわけか。よっぽど日ごろの行いが悪いのね」
「ほっといてよ」
まったく……隙あらば憎まれ口ばかりなんだから。
「それじゃあさ、今度は僕から聞きたいんだけど……玲於奈は、拳聖さんが嘘をついてるって言ったよね? それって、本当なの?」
「言ったでしょ? あたしがお兄ちゃんのこと、わからないわけないんだから」
玲於奈は、俯きながら話し始めた。
「お兄ちゃんは、絶対まだボクシングに未練があるはずよ」
「拳聖さんがやめるっていたとき、お父さんやお母さんは止めなかったの?」
「あたしんち、お父さんとお母さんいなくて……ずっと二人暮らしだから」
「ごめん……。変なこと聞いちゃったかな」
ふるふる、玲於奈は小さく、そして何度も顔を振った。
「お母さんは、あたしを生んですぐに死んじゃったの。お父さんはね、ボクシングの元オリンピック選手で、子どものころからお兄ちゃんはお父さんボクシングを教えてくれたわ。確か五歳くらいから。あたしも……まあ、時々教えてもらってたかな……」
そっか、だから拳聖さんも玲於奈も……。
「けど、お父さんも交通事故で死んじゃって。それでそれからはお兄ちゃんがあたしのお父さん代わりだったの。あたしのご飯作ったりいろいろ面倒見てくれたり、その合間を縫ってボクシングの練習もして……」
「すごいね。それで何度も全国優勝しちゃうんだ」
「お兄ちゃんは、天才なの」
恋人を自慢するような、のろけるような口調で、とろんとした目で玲於奈は笑った。
「うん。なんたって拳聖さんは“シュガー”だもんね」
「あたしも、ずっとお兄ちゃんはボクシングを続けるものだとばかり思ってた。だけど……」
突然ボクシングをやめちゃったのか……。
「あたし、何度もボクシングをやめた理由を聞いてみた。だけど、いつも返ってくる答えは同じだった。今まで、あたしに隠しごとなんか、絶対にしなかったのに……」
あ、また目が潤んでる。
すごく悲しいんだ、悔しいんだ。
大好きだったお兄ちゃんが、理由もわからずにグローブを吊るしてしまったことが。
お兄ちゃんが、理由もわからずにグローブを吊るしてしまったことが。
「ねえ玲於奈」
大きく開かれた玲於奈の瞳は、水をまとった水晶玉みたいだった。
「僕も昨日までは、僕は一体何のためにこの学校に入学したんだろ、ってずっと悩んでた。拳聖さんの姿にあこがれて静岡県の高校にまでやってきて、一体僕の今までの努力は何だったんだろ、さっきまではそんな風に考えてたんだ」
玲於奈の瞳から、もう少しで涙が零れ落ちそうになっているのが見える。
「けどやっぱり、拳聖さんが何の理由もなく、モチベーションが上がらないなんて理由で、ボクシングを諦めるはずなんてない。僕も、玲於奈の意見に賛成だよ。」
玲於奈の潤んだ瞳が、僕に真っ直ぐに突き刺さる。
そうだ、きっと、何か理由があるはずなんだ
拳聖さんが、そんなつまらない理由で、ボクシングを捨てるはずなんてないじゃないか。
「だから僕は、ボクシング部を復活させてみせる」
「玲……」
「拳聖さんにボクシングへの情熱が残ってるなら、拳聖さんは絶対またリングに上がってくれるよ。だから……まだ今は、泣く時じゃない」
玲於奈はぐじぐじと両目をこすった。
「なによ……弱っちいくせに……」
ははは……それは否定できないかな……。
「ぐす……けど……ありがと……」
え?
初めて玲於奈からありがとう、なんて言葉聞いたかも。
こうしていると、すごく素直な子じゃないか。
いつもこうならすっごくかわいい女の子なのに。
あ……そういえば……。
「ねえ、もう一つ聞きたいことあったんだけど」
「ぐす……なに?」
「なんで玲於奈は家出したの?」
ピクン、その言葉に、穏やかだった玲於奈の顔が一瞬にしてこわばった。
「い、いや……さっき“あんなことして”とか何か言ってたから……理由は何かなって――」
「なによ……思いだしちゃったじゃない……せっかく忘れたと思ったのに……」
そ、そんなに眉間にしわを寄せなくたっていいじゃないか。
なんで顔が真っ赤なの?
「私が帰ってきたとき……お兄ちゃんが……お兄ちゃんが……」
「拳聖さんが?」
「……“いえでしてた”の……」
は?
「どういうこと? 家出したのは君で、拳聖さんが家出したわけじゃないでしょ?」
「ああもう! あんた本当にいくつ? これだからあんたはガキだって言ってんの!」
ガ、ガキ!?
何でいきなりキレてんのかさっぱりわかんないんですけど!?
「“家出”したのはあたしだけど、お兄ちゃんは“いえでしてた”の! そのシーンを見ちゃったの! あたしとお兄ちゃんの二人っきりで暮らす神聖な部屋で!」
家にいるのに家出する?
マジで意味わからないんですけど!?
「あったまくる! ちょっと位イケメンでスタイルもよくて笑顔が素敵でクールで女の子には優しくて、妹のあたしから見たってとろけちゃうくらいに格好いいからって調子に乗って!」
そ、そうか、やっぱり玲於奈って……超がつくほどのブラコンなんだな……。
「絶対に許せない! 絶対にお兄ちゃんのことまたリングに引きずり上げてやるんだから!」
な、なんだかよくわかんないけど……やる気になったんなら、よかった……のかなあ?
「玲っ! 明日からすぐにスタートよ!」
「え? いきなり? そうは言っても、普通に授業とかあるし、君だって学校とか……」
「“でも”も“スト”もない! “はい”か“イエス”しかない! わかった!?」
さっきまでちょっとだけかわいいかなって思ったのに……前言撤回だよ、まったく!