「大丈夫? ほら、これで冷やしなさい」
女の子は、僕のタオルを水でぬらして差し出した。
「まったく、情けないんだから。あんたもっと鍛えたほうがいいわよ」
公園のベンチで僕はそれを受けとって、シャツの下からみぞおちに当てた。
「ていうか、君すごいね。あっという間に二人の男の人をノックアウトしちゃうんだもの」
「たいしたことないわ。要はスピードとタイミングよ」
そう言うと、女の子は軽やかに、美しく拳で空を切る。
「どんなに力の差があったって、どんなに体重差があったって、あの角度からのパンチで頭を揺らしてあげれば失神するわ。ま、あんたにはわかんないでしょうけど」
うん、間違いない。
「君さ、ボクシング経験者でしょ」
?
どうしたんだ? 急に無口になっちゃって……。
「ねえ」
わっ、急に僕の隣に座るなよ。
ていうか、顔近いし……ドキッとするじゃん……。
「あんたなんて名前なの? あたしを助けたんだから、名前くらい聞いてあげてもいいけど」
なんでそんなに偉そうなんだよ……。
「僕は佐藤、佐藤玲だよ」
「佐藤? またベタな苗字ね」
「ほっといてよ! ていうか、人の名前を聞く前に、自分の名前くらい名乗れよ!」
「……藤……」
「え?」
「佐藤玲於奈よ!」
「自分だって佐藤じゃないか! それでよく人の名前バカにできるね!」
「うるさいわね! あんたみたいなシンプルすぎる名前と一緒にしないで!」
「ああもういいよ。僕はこれから夕ご飯の買い物をしなくちゃいけないから、もう行くね」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
すると玲於奈は、ちょいちょいとベンチの横を指差す。
「それがどうかした?」
「どうかしたですって? 少しは頭働かせなさいよ! これ見て何も考えないの?」
「大きな荷物だね……っていたっ!」
「あんた本当にバカね! あたしみたいな美少女がこんなバッグ抱えてたら、どうしたのって聞くのが礼儀でしょ!?」
「むこうずね蹴り上げなくてもいいじゃないか……それじゃあ……どうしたの?」
「はあ? なんであんたにそんなこと言わなくちゃいけないの?」
「めちゃくちゃだよそれ! ええと……どこか旅行でも行くっての?」
「こんな平日なのに? あんたモテないでしょ!? ぜんっぜん何もわかってないわ!」
「ああもう、面倒臭いな! わかりました! 君がどうしてそんな大きなバッグを抱えてるのか、僕にはわかりません! どうかその意味を教えてください!」
「まあ、そこまで言われたんなら仕方がないわ」
はあもう……勝手にしてくれ……。
「その理由は――」
「何やってんだ」
ん?
誰だろ……って……あ、あなたは――
「け、拳――「――お兄ちゃん!」」
へっ?
お、お兄ちゃん?
「昨日から、中学生のガキが学校サボってどこに行ってたんだ。携帯も無視しやがって」
「な、何言ってんのよ! それはこっちのせりふよ! お兄ちゃんが悪いんでしょ!?」
「ね、ねえ玲於奈。あ、あの……」
「なによ! あんたは引っ込んでてよ!」
「れ、玲於奈って、拳聖さんの妹だったの?」
「? 拳聖……さんって……あんたこそお兄ちゃんとどういう関係よ!」
「ん、あ、お前は確か……あのときの少年――」
拳聖さんは髪の毛を掻き揚げて言った。
「ま、詳しい話しは今度聞くよ。それより玲於奈、帰るぞ」
「絶対帰んない!」
玲於奈は駄々っ子のように顔を振った。
「最近お兄ちゃんおかしいもん! なんでそうなっちゃったの!? 急にボクシングやめちゃったかと思えば、遊び人みたいになっちゃったし!」
「何度も言っただろ。モチベーションの問題だよ」
「こないだ見たもん! お兄ちゃんが、ボクシングの新聞記事をじっと見てたの! モチベーションなくした人が、そんなに未練がましく新聞記事を眺めるものなの?」
えっ? け、けど拳聖さんはこの間――
「あたしたちきょうだいでしょ? お兄ちゃんの心なんて、すぐにわかるんだから!」
玲於奈の言葉に、拳聖さんはばつが悪そうに髪をかきあげた。
「そんなことは、もうどうでもいいだろ。さっさと帰――「――絶対に帰んない!」」
へっ?
な、なんで玲於奈は僕の腕を取ってるの?
「お兄ちゃんが心のそこから反省するまで、あたしはこいつの家で暮らすから!」
「ちょ、ちょっと! か、勝手に決めないでよ!」
「こんな美少女と一緒に暮らせるなんて男のロマンでしょ!? ありがたく思いなさい!」
「だからめちゃくちゃだってそれ!」
「わかったわかったって。悪いな少年。俺の妹、世話してやってくれ」
「拳聖さんも納得しないでください!」
僕はちらりと玲於奈の横顔を見る。
改めてみると……すごく、うん……すごくかわいい子なんじゃない?
拳聖さんもすごくハンサムだから、似てるの――
「――だ、だめです! お、男の家に、女の子が一緒に暮らすなんてそんな――」
すると拳聖さんは僕たちに近寄って来ると、ごそごそとポケットをまさぐった。
「ほら、手ぇだせ」
「なによ……生活費でも恵んで――」
なにこれ……?
「最ッ低!」
玲於奈はそれを拳聖さんの顔面にたたきつけた。
「いや、兄としてやっぱりそういうところはほら、その少年とどうにかなった時――」
「は!? 何考えてんの!? 兄として!? もっとほかに気を使うところがあるでしょ!? だから帰りたくないっていってんのよ! もう信じらんない! ほら、さっさと行くわよ!」
「ね、ねえ、玲於奈。あのビニールに包まれたリング状のものは一体――」
「あんたにゃ十年早いわよっ!」
――
「ふーん、なかなかのもんじゃない」
「はいはい、お気に召しまして光栄ですよ」
「何よその言い方。この美少女が一緒に暮らして上げるのよ? ありがたく思いなさい」
ったく、面倒くさい子だなあ。僕は食材の詰まったビニール袋をテーブルに置いた。
「そんなことより、あたしお腹空いたんだけど。早くご飯の支度してよ」
「あのさあ、ここ僕んちなんだから、居候する人が用意してくれたっていいと――」
「――あ、自慢じゃないけど、あたしはその手の家事全くできなから」
「本当に自慢にならないっ!」
はあもう……でも全く家事できない子だってんなら、自分でやった方がまだましか……。
「わかったよ……。じゃあ、その辺に座ってテレビでも見てて」
「そうそう、着替えたいんだけど。制服しわにしたくないし。あんたの部屋借りるわね」
「全くマイペースなんだから……。わかったよ、勝手にしなよ」
「あ、わかってると思うけど、覗いたら殺すから」
「はいはい、僕はそんなことしませんよ」
「あたしのパンツ覗いた男が何偉そうに言ってんのよ」
「あ、あれは事故です! 事故! そもそも君が勝手に空から降ってきたんでしょ!?」
――
「ご飯できたー?」
「あ、うん。今仕度してるところだから――って、ちょ、ちょっと!」
「ん? 何って……いつもの格好だけど?」
キャミソールにショートパンツ、ほとんど下着みたいな恰好じゃないか!
しかも、ショートパンツの隙間から……ちらちら見えちゃってますよ!
「か、風邪ひいちゃうよ? こ、このマンション、結構冷えるんだからねっ!?」
「あっそ。じゃあ、これでも羽織っとくね」
「それ僕のパーカーじゃん! かってに着ないでよ! 自由すぎっ!」
――
「ぷう、美味しかった。あんた料理上手じゃん」
「よかった。人に料理食べてもらうなんて初めてだからさ」
うん、やっぱりご飯は一人で食べるより、一緒に食べる人がいたほうがおいしいよね。
誰かと遺書にご飯を食べるなんて久しぶりだから、そういった意味では玲於奈に感謝かな。
玲於奈にはオレンジジュースをコップに注ぎ、僕はコーヒーの入ったマグカップを手もとに置いた。
「ねえ、そろそろ聞かせてよ。あんたが定禅寺西を受験した理由と……お兄ちゃんとの関係も」