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第9話

「大丈夫? ほら、これで冷やしなさい」

 女の子は、僕のタオルを水でぬらして差し出した。

「まったく、情けないんだから。あんたもっと鍛えたほうがいいわよ」

 公園のベンチで僕はそれを受けとって、シャツの下からみぞおちに当てた。

「ていうか、君すごいね。あっという間に二人の男の人をノックアウトしちゃうんだもの」

「たいしたことないわ。要はスピードとタイミングよ」

 そう言うと、女の子は軽やかに、美しく拳で空を切る。

「どんなに力の差があったって、どんなに体重差があったって、あの角度からのパンチで頭を揺らしてあげれば失神するわ。ま、あんたにはわかんないでしょうけど」

 うん、間違いない。

「君さ、ボクシング経験者でしょ」

 ?

 どうしたんだ? 急に無口になっちゃって……。

「ねえ」

 わっ、急に僕の隣に座るなよ。

ていうか、顔近いし……ドキッとするじゃん……。

「あんたなんて名前なの? あたしを助けたんだから、名前くらい聞いてあげてもいいけど」

 なんでそんなに偉そうなんだよ……。

「僕は佐藤、佐藤玲だよ」

「佐藤? またベタな苗字ね」

「ほっといてよ! ていうか、人の名前を聞く前に、自分の名前くらい名乗れよ!」

「……藤……」

「え?」

「佐藤玲於奈よ!」

「自分だって佐藤じゃないか! それでよく人の名前バカにできるね!」

「うるさいわね! あんたみたいなシンプルすぎる名前と一緒にしないで!」

「ああもういいよ。僕はこれから夕ご飯の買い物をしなくちゃいけないから、もう行くね」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 すると玲於奈は、ちょいちょいとベンチの横を指差す。

「それがどうかした?」

「どうかしたですって? 少しは頭働かせなさいよ! これ見て何も考えないの?」

「大きな荷物だね……っていたっ!」

「あんた本当にバカね! あたしみたいな美少女がこんなバッグ抱えてたら、どうしたのって聞くのが礼儀でしょ!?」

「むこうずね蹴り上げなくてもいいじゃないか……それじゃあ……どうしたの?」

「はあ? なんであんたにそんなこと言わなくちゃいけないの?」

「めちゃくちゃだよそれ! ええと……どこか旅行でも行くっての?」

「こんな平日なのに? あんたモテないでしょ!?  ぜんっぜん何もわかってないわ!」

「ああもう、面倒臭いな! わかりました! 君がどうしてそんな大きなバッグを抱えてるのか、僕にはわかりません! どうかその意味を教えてください!」

「まあ、そこまで言われたんなら仕方がないわ」

 はあもう……勝手にしてくれ……。

「その理由は――」

「何やってんだ」

 ん?

 誰だろ……って……あ、あなたは――

「け、拳――「――お兄ちゃん!」」

 へっ?

 お、お兄ちゃん?

「昨日から、中学生のガキが学校サボってどこに行ってたんだ。携帯も無視しやがって」

「な、何言ってんのよ! それはこっちのせりふよ! お兄ちゃんが悪いんでしょ!?」

「ね、ねえ玲於奈。あ、あの……」

「なによ! あんたは引っ込んでてよ!」

「れ、玲於奈って、拳聖さんの妹だったの?」

「? 拳聖……さんって……あんたこそお兄ちゃんとどういう関係よ!」 

「ん、あ、お前は確か……あのときの少年――」

 拳聖さんは髪の毛を掻き揚げて言った。

「ま、詳しい話しは今度聞くよ。それより玲於奈、帰るぞ」

「絶対帰んない!」

 玲於奈は駄々っ子のように顔を振った。

「最近お兄ちゃんおかしいもん! なんでそうなっちゃったの!?  急にボクシングやめちゃったかと思えば、遊び人みたいになっちゃったし!」

「何度も言っただろ。モチベーションの問題だよ」

「こないだ見たもん! お兄ちゃんが、ボクシングの新聞記事をじっと見てたの! モチベーションなくした人が、そんなに未練がましく新聞記事を眺めるものなの?」

 えっ? け、けど拳聖さんはこの間――

「あたしたちきょうだいでしょ? お兄ちゃんの心なんて、すぐにわかるんだから!」

 玲於奈の言葉に、拳聖さんはばつが悪そうに髪をかきあげた。

「そんなことは、もうどうでもいいだろ。さっさと帰――「――絶対に帰んない!」」

 へっ?

 な、なんで玲於奈は僕の腕を取ってるの?

「お兄ちゃんが心のそこから反省するまで、あたしはこいつの家で暮らすから!」

「ちょ、ちょっと! か、勝手に決めないでよ!」

「こんな美少女と一緒に暮らせるなんて男のロマンでしょ!?  ありがたく思いなさい!」

「だからめちゃくちゃだってそれ!」

「わかったわかったって。悪いな少年。俺の妹、世話してやってくれ」

「拳聖さんも納得しないでください!」

 僕はちらりと玲於奈の横顔を見る。

改めてみると……すごく、うん……すごくかわいい子なんじゃない?

拳聖さんもすごくハンサムだから、似てるの――

「――だ、だめです! お、男の家に、女の子が一緒に暮らすなんてそんな――」

 すると拳聖さんは僕たちに近寄って来ると、ごそごそとポケットをまさぐった。

「ほら、手ぇだせ」

「なによ……生活費でも恵んで――」

 なにこれ……?

「最ッ低!」

 玲於奈はそれを拳聖さんの顔面にたたきつけた。

「いや、兄としてやっぱりそういうところはほら、その少年とどうにかなった時――」

「は!? 何考えてんの!? 兄として!?  もっとほかに気を使うところがあるでしょ!? だから帰りたくないっていってんのよ! もう信じらんない! ほら、さっさと行くわよ!」

「ね、ねえ、玲於奈。あのビニールに包まれたリング状のものは一体――」

「あんたにゃ十年早いわよっ!」


――


「ふーん、なかなかのもんじゃない」

「はいはい、お気に召しまして光栄ですよ」

「何よその言い方。この美少女が一緒に暮らして上げるのよ? ありがたく思いなさい」

 ったく、面倒くさい子だなあ。僕は食材の詰まったビニール袋をテーブルに置いた。

「そんなことより、あたしお腹空いたんだけど。早くご飯の支度してよ」

「あのさあ、ここ僕んちなんだから、居候する人が用意してくれたっていいと――」

「――あ、自慢じゃないけど、あたしはその手の家事全くできなから」

「本当に自慢にならないっ!」

 はあもう……でも全く家事できない子だってんなら、自分でやった方がまだましか……。

「わかったよ……。じゃあ、その辺に座ってテレビでも見てて」

「そうそう、着替えたいんだけど。制服しわにしたくないし。あんたの部屋借りるわね」

「全くマイペースなんだから……。わかったよ、勝手にしなよ」

「あ、わかってると思うけど、覗いたら殺すから」

「はいはい、僕はそんなことしませんよ」

「あたしのパンツ覗いた男が何偉そうに言ってんのよ」

「あ、あれは事故です! 事故! そもそも君が勝手に空から降ってきたんでしょ!?」


――


「ご飯できたー?」

「あ、うん。今仕度してるところだから――って、ちょ、ちょっと!」

「ん? 何って……いつもの格好だけど?」

 キャミソールにショートパンツ、ほとんど下着みたいな恰好じゃないか!

 しかも、ショートパンツの隙間から……ちらちら見えちゃってますよ!

「か、風邪ひいちゃうよ? こ、このマンション、結構冷えるんだからねっ!?」

「あっそ。じゃあ、これでも羽織っとくね」

「それ僕のパーカーじゃん! かってに着ないでよ! 自由すぎっ!」 


――


「ぷう、美味しかった。あんた料理上手じゃん」

「よかった。人に料理食べてもらうなんて初めてだからさ」

 うん、やっぱりご飯は一人で食べるより、一緒に食べる人がいたほうがおいしいよね。

 誰かと遺書にご飯を食べるなんて久しぶりだから、そういった意味では玲於奈に感謝かな。

 玲於奈にはオレンジジュースをコップに注ぎ、僕はコーヒーの入ったマグカップを手もとに置いた。

「ねえ、そろそろ聞かせてよ。あんたが定禅寺西を受験した理由と……お兄ちゃんとの関係も」


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