そして僕は、再びマンションのベッドの上に戻っていた。
“今見せた二つの世界は、ある意味では少年の未来、といっても過言ではない”
“未来というものは、所詮はある限定された可能性を含んだ現在でしかありませんがね”
ちょっと難しいけど……僕にはどういうわけかその意味がわかった。
一方は、ボクシングを諦めた、一方は、ボクサーとしての道を歩んだ、それぞれの僕の未来の可能性なんだ。
“それでは、聞こう”
“あなたは、どちらの未来を選択しますか?”
え?
“失礼、私も職業柄なものでしてね”
銀行員マッチョのJさんは、どこからか取り出したアタッシュケースから書類を取り出し、そして僕に提示した。Jさんの手元に翻ったのもの、それは二枚の契約書だった。
“このどちらかにサインをしてください。現実を受け入れ、新しい人生を送るか。それとも、現実を這いまわり、実力で覆すか。全てはあなた次第です”
僕の選ぶ道……。そんなの、選ぶ余地なんかないよ。どう考えたって――
“僕も、ボクシングを始めたら、拳聖さんみたいに強くなれますか?”
“僕は、あなたみたいなボクサーになります! そしていつか……僕も“シュガー”って呼ばれるくらいすごいボクサーになります!”
「ふっ、ひっ、ひっ……えぐぅ……」
僕のバカ……。意気地なし。泣いたりなんかしちゃってるんだよ。そうだよ。どんなに可能性が低くたって、どんなに現実に打ちのめされたって――
「僕は、強いボクサーになるって決めたんです!」
あの日見たリングの上の拳聖さんの姿、あんなふうになれるわけないってわかってるんだ。
けどそれでも、僕はボクシングをやりたいんだ。
地球が太陽に突っ込んで蒸発しちゃうくらいありえない確率だとしても、“シュガー”なんて呼ばれるようなボクサーになりたいんだ。
“決まったようだな”
Lさんは、ニイ、と心地よい笑みを浮かべた。
“それでは、ビズィネスに取り掛かりましょうか。こちらにサインを”
「こ、これにサインをすれば、僕は拳聖さんのようなボクサーに――」
“残念ながら、それはできません”
まさしくビジネスライクに、Jさんはきっぱりと言い放った。
“あなたのその選択は、現実を覆すというということ、いわば死者を再び現世へと呼び戻すのに等しいものです。それをできるのは、神のみです”
“分をわきまえなければならぬ。‘バベルの塔’の災厄を思いだすがいい”
「じゃ、じゃあこの書類にサインをしたら、どうなるんですか?」
“‘天使’が、あなたの元に舞い降ります”
“その天使は試練、いや災いというべきか……ともかくそれをもたらすことになるだろう”
て、天使だって? しかもそれが、試練をもたらす?
“少年よ、あえてもう一度聞こう”
Lさんは、再び腕を組んだ。
“それでもボクサーとしての道を歩むか?”
ちょっと怖いけど、そうさ、もう僕の気持ちはとっくに決まっている。
「僕は……“試練”を乗り越えてみせます!」
“これで契約成立ですね。それでは、お願いします”
パチイィィィン――
Lさんが大きく指を鳴らすと、Jさんの手にした書類に、僕の名前が浮かび上がった。
Lさんは、僕の肩に手を乗せる。
“自らを飲み込む現実をリングの上の実力で覆す。それもまたボクシングという業なのだ”
“ただひとつ、これだけは忘れないでいてください”
Jさんがそう言った瞬間、部屋全体が凍りつくような暗闇に包まれた。
“絶対に、振り返ってはいけません。さもなくば――”
振り返ってはいけない? そ、それはどういう――
“君は、大切なものを失うだろう”
「わかりました」
僕は力強く頷いた。
そうだ。
僕は振り返らない。
何あがっても、前だけを向いて進むんだ。
“‘現実’を受け入れる? そんなものは、軟弱もののたわごとだ”
Lさんは僕の頭をポンポンとなでた。
“きっと君は、よきボクサーになれるであろう。‘卑怯者の戦法’、など取ることなくな”
カチン、という音が部屋に響いたような気がした。
“……まだ言ってるんですかあなたは……。結果がすべてです。あらゆる角度から検討したとしても、私の勝利は揺るぎません”
なんだかおかしな雰囲気になって来たぞ……。
「あのー……申し訳ありませんですけど、こんなところで喧嘩は……」
“何を言う! スタンドアップ・アンド・ファイトこそがすべてではないか! 貴様この我輩の鉄拳を食らいたいのか?”
“そんなもの食らったら死んでしまいますよ”
いや死んでますよ。
“時代は変わるのですよ。今は私のクレバーさこそが生きる時代なのです!”
「あの、ですね、お願いだから仲良く――」
“うぬう! そこまで言うのならば、百年ぶりのリマッチといこうではないか!”
“望むところですよ。‘卑怯者の戦法’? 古臭い。今は‘ジャブ’っていうんですよ!”
ああああ、ファイティングポーズまでとっちゃってる。僕のベッドの脇で、裸と銀行員風のマッチョな二人が向かい合う、なんてシュールな……なんていってる場合じゃない!
「や、やめてください! け、喧嘩するなら別の――」
““やかましい!””
「うひゃっ!?」
ってててててててて……。もうなんなんだよ、あんなマッチョが二人して僕のことを突き飛ばさなくてもいいのに……って、あれ?
「Lさん? Jさん?」
気がつくと時計は深夜の二時を回っている。周りには、静寂と暗闇だけが広がっている。なんだ、そうだよな。バカだな僕って、なんて夢見ちゃってるんだろ。って――
「なんだこれ……」
LさんとJさんに突き飛ばされた肩口が、青黒いあざになっていた。
※※※※※
「あ、佐藤君おはよ……どうしたの? なんだか……隈すごいよ」
「え? そ、そう?」
言えるわけないよなあ。
昨日の夜、ボクサーの幽霊が部屋で暴れまわってた、なんて。
「やっぱり、昨日のこと気にしてるの?」
「え? い、いや……そういうわけじゃないんだけどね、ははは……」
「そっか。俺も……昨日言い過ぎちゃったかなって思ってさ、ちょっと気にしてたんだ」
「ううん。本当のことだし。僕は大丈夫だから」
悠瀬君のその小さな笑顔に、少し僕の心の緊張はほぐれた。
「けど一人暮らしっていいよな。けどさ、女の子連れ込んだりできるじゃん」
「あはは、ないない。僕に女の子なんて、そんなことあるわけないじゃん」
僕は悠瀬君みたいに背が高くてハンサムじゃないからね。
けど悠瀬くんもそういう冗談言ったりするんだな。
もしかして、僕に気を使ってくれたりするのかな?
「僕みたいな男のところに女の子がやってくるなんて――某アニメみたいに空から女の子が降ってくるくらいありえない展開だよ」