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第6話

 はぁ……。


 なんだろ、宿題も手につかないや……。


「……だめだ、疲れた……」


 シャーペンを手放すと、僕はそのままベッドに倒れ込んだ。


 学校から歩いてすぐ、駅前のマンション。


 実家を離れるわけだから、当然一人暮らしだ。


 家事を終わらせた後、それから勉強に取り掛からなくちゃいけない。


 わかってたはずなんだけど、結構つらい。


 僕にはこのまま高校に通う意味があるんだろうか。


 枕に顔をうずめた僕のズボンのポケットに、何かが触れる。


“○△年全国高等学校総合体育大会ボクシング優勝”


 馬鹿みたいに突っ走ってここまできたけど、拳聖さんや石切山先生の言うように――


「――僕も、“現実”を受け入れなくちゃいけないんだろうか」


“ヘイボーイ”


 宿題終わらせたら、お米研いで明日の朝食の支度しとかなくちゃ……。


“ヘイユー、ボーイ。ヘイヘイヘイボーイ、ムシシチャダメヨ。キコエテルンショー?”


 聞こえない聞こえない、何も聞こえないよ僕……。


“イイカゲンイシナサーイ!”


 ゴンッ


「あいたっ!」


 な、何だよ一体……。僕しかいないはずのこの部屋で、一体誰が? 


 もしかして――


「どろぼー!」


“チガウデショ!”


 ゴンッ


「あいたたっ! ったたたたた……い、一体どうしたって――」


“コンバンワ、ボーイ。ソンナニナカナイデ”


 そこには、一人の男が立っていた。


 白い肌に、短く刈り上げられた髪の毛、口元には天を仰ぐカイザーひげ。


 裸の上半身に、丸太のように太い腕を組み、そして下半身には編み上げのロングブーツに……股間を強調するかのようなスキニーなタイツ……。


「変態だー!」


“ダレガヘンタイヨッ! シッケイナ!”


 ゴンッ


「あいたたたっ!」


“マッタク、アナタトイウショウネンハ、メウエノヒトニタイスルケイイトイウモノヲマッタクワカッテイナイネ。ユーハホントニジャパニーズ?”


「そんな格好で人の家に勝手に入り込むような人に言われたくありません!」


 って、え? 


 い、一体誰?


 ごくり、つばを飲む僕に、大男はウィンクした。


“ワタシハ、カミサマデス。ボクシングノカミサマデス。ワタシノコトハ、‘L’ッテヨブガヨロシデショウ”


 L?


 名前を書くと人が死んじゃうノートを巡るサスペンスドラマに出てくる探偵みたいな名前を名乗るこのマッチョな白人男性は、白い歯をむき出しにして笑っていた。


「い、いったい、ボクシングの神様が何でここに……」


“アナタノネガイヲカナエニキタノデス”


 ね、願いを叶えるだって?


“ソレデハマズ、セカイジュウニチラバルタマヲアツメルノデス。ソノナハドラゴ――”


“ちょっと待ったー!”


 ボゴッ


“いってえ?”


 おいおい、また変なのが出てきたぞ……。


 その人は、Lと同じく大柄な白人男性だったけど、きちんとダブルのスーツに身を包み、綺麗に髪の毛に櫛を通して、とてもインテリジェントな匂いがする。


 なんだかこう銀行の貸付係か頭取みたいな雰囲気だ。


“何をするのだ! 痛いではないか!”


“それはこっちのせりふですよ。そもそも、何で片言なんですか”


“やかましい! そのほうが外人感が出るだろうと思ったからだ!”


 なんだよLさん、普通にしゃべれるじゃんか。


「あのー、すいませんけど、そもそもあなたたちは誰なんですか?」


“ああ、すいません。わたしの名前はジェー――“――Jだ! Jと呼べ!””


「あ、Jさんですね」


“あーあー、なんでそんなことするんですか。また彼変な勘違いしちゃいましたよ”


“我輩がLなのだから、貴様は当然Jになるに決まっておるではないか!”


「と、ところでLさんはボクシングの神様だとはうかがったんですが、Jさんは……」


“あ、本気で信じてたんですか? そんなわけないでしょう。わたしたちは幽霊ですよ単なる幽霊。すいませんね。この先輩がわけのわからない誤解させちゃって”


「あははは、騙されちゃいましたー」


“ははは、ほら先輩も。ちゃんと謝って”


“うむすまぬ。けど、まあ、よいではないか。ぬはははは”


「あははははー……成仏してくださいっ!」


““なんでそうなるっ!””


「神様仏様イエス様! 何でもいいからお助けください! いやー、殺されるー!」


“ああ、そういうのいりませんから。別にあなたを呪おうとか地獄に引きずり込もうとか、魂の取引の契約をするとか、そういうつもりで出てきたわけじゃありませんから”


「じゃ、じゃあ、なんでその幽霊さんたちがこんな東アジアの築二〇年のマンションに?」


“あなたの思いが、そのメダルを通して伝わり、私たちを呼び出したんです”


 こ、この、拳聖さんからもらったメダルに?


“少年、君は今ボクサーになることを諦め、まったく関係のない人生を歩もうと考えたな?”


「い、けませんか!?」


 だってしょうがないじゃないですか! だって……だって――


「それが“現実”なんですから!」


“そうですね。確かにあなたの、あこがれたあのボクサー、トレーナの言うとおりです”


“だが決断を下すのはまだ早い”


 ひげマッチョのLさんが、穏やかだけど力強く言った。


“これから君に、二つの世界に飛んでもらう”


 そう言うとLさんは、パチン、と指を鳴らした。




――




 気がつくと、僕は路上にいた。


 ファッション誌から飛び出したような女の人や、ちょっと悪そうな男の人が行き来する。


 そして誰も、僕の存在に気がついていない。


 うん、間違いない。


 ここは夜の渋谷だ。


 あれは……? 


 僕と同い年くらいの男の子だ。


 ライブハウスから、ギターケースを担いで出てきた。


 たぶん、ライブが終わったばかりなんだろう。


 ん? 


 制服の女の子が後ろから出てきて、男の子と腕を組んだ。


 きっと、彼女なんだろうな。


 そっか、僕も今から東京の共学校に転校すれば、こんな生活を送れるかも――




――




“どうでしたか?”


「え?」


 気がつくと僕は静岡の、暮らし始めたばかりのマンションのベッドの上にいた。


「こういう風になれるかどうかはともかく……すごく楽しそうに思えました」


 今のうちに転校する支度しておけば、こういう生活が送れるかもしれないんだ……。


“それでは、もうひとつの世界を見てもらおう”


 パチン




――




 降り注ぐ大要の光と、時折砂埃を舞い上げる風の乾き。


 コンクリートの壁に、一面のペイント。


 その体感はないけれど、きっとここは中南米。


 すると僕の目の前に、土の地面に杭を打ち、ロープをまわしただけのリングが見えた。


 その中に、二人の男たちが。


 一人は褐色の肌に縮れた黒い髪、典型的なヒスパニックのボクサーだ。


 トリッキーなフットワークで自由自在に動き回り、相手選手に拳を一方的に浴びせ続ける。


 もう一方は……顔はよく見えないけど、たぶんアジア系だ。


 それも、東アジアの。


 彼は何度も強烈なパンチを受ける。


 鼻はつぶれ、乾いた鮮血は体中に複雑な文様を描き、左瞼ははれ上がりほぼつぶれていた。


 そして数分後


 ゴッ


 無慈悲なアッパーカットが、アジア系ボクサーのあごを叩き割った。

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