「え? ボクシング部に? 君は……特進の新入生だよね」
ここは教員室。近場にいた先生を捕まえて、僕はボクシング部に入部したいと申し出た。
「あのー、石切山先生、ちょっとお願いできますか?」
「どうかしましたか?」
太い声が響いたかと思うと、一人の先生が近づいてくる。
ひげもじゃの顔に、でっぷりと太った巨体、そうだ、この人、あのインターハイで――
「あのですね、この新入生の子が――」
「――イシさんですよね!」
――
「拳聖、か……。それはまた罪作りな……」
罪作り? どういうこと?
「あのインターハイの会場にいたということは、君は“越境組”、ということか」
古ぼけた旧館を僕たちは連れ立って歩くと、部室棟の三階にたどり着いた。
石切山先生はその奥のほうまで歩いていく。
左手には卓球部やバドミントン部の表札が見える。
「ここは……うわっぷ?」
左手を眺めながら歩いていた僕は、急に立ち止まった石切山先生の大きな背中にぶつかる。
先生は白塗りの扉に前に立つと鍵の束を取り出し、ジャラジャラとその中をより分ける。
「定禅寺西のボクシング部は日本でも有数の伝統を誇り、そして強豪校として知られていた」
先生はゆっくりと、その白塗りの扉を開けた。
「去年のインターハイまではな」
「うわっ!?」
なんだこれ!? 予想はしてたけど、汗臭いしほこりっぽいし、それ以上に――
「げほっ、げほっ、げほっ、何か、こげたようなにおいしませんか?」
すると石切山先生は、部室の奥を指差した。
その一角は、焚き火をしたように真っ黒にすすけた壁があった。
奥の壁には、“常勝・定禅寺西拳闘部”とかかれた旗が飾ってあるのが見えた。
「ここが、君が入部を望んでいた定禅寺西高校拳闘部の部室兼ジムだ」
「なんでこんなに荒れ果てているんですか?」
「あのインターハイの後のことだ」
石切山先生の太い腕がめり込むと、サンドバッグが大きく揺れた。
「ボクシング部にはうちの学校でも特にたちの悪い連中が近寄ってきやすくてな。まともに練習もせず、ついてもこれないような連中がタバコでぼや騒ぎを起こしたんだ」
よく見るとそのサンドバッグの表面も焼け焦げたように変色していた。
「その後停学処分を受けた連中が、謹慎期間中に家を抜け出して街中を遊び歩いているという通報が入った。当てつけのように、ボクシング部のジャージーを来たままな。駆けつけてみれば、飲酒喫煙。さらに、他校の生徒と乱闘騒ぎのおまけつきだ」
石切山先生は、ぎりりと奥歯をかみ締める。
「その後、残っていた部員も全て部を去った。それが、我が伝統あるボクシング部の現状だ」
「や、やっぱり拳聖さんがボクシングをやめたのは、この不祥事が――」
「それは関係ない。拳聖がボクシングをやめたのは、この不祥事が起こる前のことだ」
「だ、だったら僕が復活させます! 部員も一から集めます! 僕には諦めきれ――」
「――現実を受け入れるんだ」
石切山先生の冷酷ともいえるトーンに、僕は言葉を飲み込んだ。
「“常勝”を誇ったボクシング部が――」
石切山先生は、ほこりにまみれた手をパンパンと払って言った。
「――“シュガー”と賞賛されたボクサーが存在した。その思い出だけ残ればいい」
――
頭がぼおっとする。
視界がゆがんで、くらくらする。
とりあえず何も考えられない僕は、校門へ向かってふらふらと歩くしかなかった。
だめだ……僕もう……体に力が入んな――
「あぶない!」
へたり込みそうになった僕を抱える腕。朦朧とする意識の中、僕はその顔を振り返る。
「悠瀬君……」
――
「落ち着いた?」
そこは中庭のベンチ。
足腰のたたない僕を抱え、悠瀬君が座らせてくれた場所だ。
「ありがとう……。悠瀬君は、なにしてたの?」
「ああ、放課後講習の説明会。無料で受けられるし、まあ取ってもいいかなって」
そっか……。
悠瀬君はもう、大学入試のことまで考えてるのか……。
現実的だよなあ……。
「冷たい言い方だけどさ、これで吹っ切れただろ? “現実を受け入れろ”か。いい言葉じゃん」
悠瀬君は、まるで自分に言い聞かせるかのように言った。
「俺らは、特進クラスなんだ。大学受験に向けてひたすら勉強していく、それが俺らの、俺にとっての、この定禅寺西での“現実”だから」