「佐藤君は、放課後講習取るの?」
「え、と……君は……」
「ああ、俺の名前? 俺、悠瀬。悠瀬美雄」
そういうと、悠瀬くんは縁の黒い、お洒落な眼鏡を指で抑えた。
身長は、僕よりだいぶ高いな。顔立ちも整ってて、すごくクールな感じが伝わってくる。
「あ、ごめん、席隣なのに」
僕は頭を掻いた。
あれから八ヶ月。
その日は入学式の後のロングホームルーム。
そう、僕はこの定禅寺西高校に入学したんだ。
だって、僕には目標があるんだから。
「僕は講習とるつもりはないんだ。ボクシング部に入るって決めてるから」
「あーっと……佐藤君は、この辺の出身じゃないんだっけ」
「うん。僕は越境組だもん」
僕と同じようにこの定禅寺西に入学するために越境入学してくる生徒は“越境組”なんてこの学校では呼ばれている。
越境入学する生徒には特待生や奨学金が出やすいんだ。
我ながら思い切ったことをしたと思う。
ボクシング部に入るためだけに、越境入学をしたんだから。
「俺には理解できないな。越境入学してまで、この男子校に入学した特待生が」
悠瀬君は、人差し指で眼鏡の位置を直した。
僕がこの高校に入学する条件として両親から出されたのが、特待生になることだ。
授業料から何から全部免除で、県外入学者はアパート代の補助まで出るんだ。
確かに、本当なら勉強に打ち込まなければいけないところなんだろうけど
「誰が何といおうとボクシング部に入部するよ」
だって、僕には目標とする人がいるんだから。
――
普通科と体育科のある旧館の一階の校舎を、僕はおっかなびっくり歩いていく。
定禅寺西高校は、特進コースと普通科・体育科はまったく別学校だ、なんて言われてるみたいだけど、うん……なんとなく頷けるかな……。
たまに、ちらちら睨むみたいに先輩たちが僕を見るのがわかる。
僕みたいにぴっちり制服を着込んでると、特進コースの生徒だってばれちゃうのかな。
制服の詰襟はずしとこう……。
――
「拳聖?」
普通科の三年生の教室近く、僕は勇気を出して一人の上級生に声をかけた。
「は、はい……インターハイに優勝した、佐藤拳聖さんを、探してまして……」
「拳聖なら、さっき教室出てったぜ。入れ違いになったんじゃねのか」
「え!? ど、どこに行ったかわかりませんか!?」
「ああん?」
ひっ!? な、なんでそんな苛立った表情してらっしゃるんですか?
「校門行きゃあわかるよ! とっとと失せろ!」
――
はあー、びっくりした。
けど拳聖さん校門のところいるって言ってたよね。
でもこの時間って部活の時間だよね?
今日は新学期始まったばかりだから、部活はないのかな? ん?
「何であんなに女の子がうちの校門に集まってるの?」
一人の女の子が、何かに気づいたように手を上げて大きく振ると、ほかの女の子たちもきゃあきゃあ言い始める。
「あっ! 佐藤さーん!」「あ、本当だ! 佐藤くーん!」
ん? なんか僕の名前が呼ばれたような……。
まあ日本中で一番ありふれてる苗字だし。
けど、違うとわかってても、やっぱりドキッとするな。
なんて考えてたら、黄色い歓声がひときわ大きくなった。
誰が来るのかな?
ん?
向こうから、肩にバッグを掛けた男の人が。
うわー、スタイルいいなあ。
その人が小さく手を振っただけで、女の子が失神しちゃうんじゃないかってうくらい舞い上がってる。
ん?
なんかこの雰囲気どこかで……。
いや、まさかね。
「もー、おそいよー」
「ずっと待ってたんだからねー」
「待たせて悪かったな」
一人の女子生徒が待ちかねたようにその男の人のところに駆け寄っていく。
「ちょっと担任に呼び出されちゃってさ」
女の子が群がる様子に、周りの生徒たちは恨めしそうな顔。
そっか、だからさっきの三年生も……。
「遅かったじゃん。メールもくれないし。待ってたんだよ――」
うーん、なんだか青春して――「――拳聖」……え?
……間違いない。
あの綺麗な顔立ちと甘い笑顔。
ずっとこの人を、夢に見るくらいまで思い続けてたんだ。
あの日、僕を助けてくれた人。
甘い笑顔で、微笑みかけてくれた人。
そして、リングの上でのとびっきりのパフォーマンスで、僕をあなたの世界に引きずりこんでくれた人。
「拳聖さん!」
僕は一目散に駆けだして、その人の前に立つ。
「あーっと……。悪い、お前、誰だっけ?」
そりゃそうだ。
一年近く前に、ほんの数十分くらい話をしただけの中学生をそういつまでも覚えているはずはない。
僕はポケットをまさぐる。
これで絶対に思いだしてくれるはずだ!
「これ! これ、覚えてますか?」
僕は、いつも肌身離さず持ち歩いているあのメダルを拳聖さんに見せた。
「ああ、そういや……お前、あのときの。けど、あれ東京だったよな?」
「あ、あの! ぼ、僕、定禅寺西高校のボクシング部に入りたくて! それで!」
「もしかして少年……それだけのためにうちの高校受験したのか?」
「そ、そうです! 僕は、拳聖さんみたいなボクサーになりたくて!」
セクシーに髪を掻き揚げた拳聖さんは、ちょっとだけ困ったような、だけど甘い笑顔を浮かべて僕の頭をポンポンなでた。
なんだろう、この違和感。
影が薄くなったって言うか……なんだか、周りの空気が薄くなってしまっているような……。
以前感じられたものが、すっぽりと抜け落ちてしまっているような……。
「悪いな。俺、あの後ボクシングやめたんだ」
へ?
「ど、どういうことですか!? 僕はあなたにあこがれてこの学校に入学したんですよ?」
「燃え尽きたって言うのかな」
も、燃え尽きた?
「二年生で高校四冠、いまさらもう、目指すべきものも見当たらないさ」
そう言うと、拳聖さんは隣にいる女の人の髪の毛に指を絡ませた。
「もう頃合いだよ。少年も、ボクシングなんて諦めて――」
「いやです! 僕は、このボクサーになることだけを考えてこの半年間を過ごしてきたんです! それを、いまさら諦めるなんてできません!」
「人間には、どうしても受け入れなくちゃならない現実ってものがある」
拳聖さんは、今度は別の女の人の腰もとに手を回す。
女の人は顔を赤くしながらも、抵抗することなくその腕を受け入れる。
そして両手花畑を引き寄せるようにして拳聖さんは振り返ると、そのまま校門を後にした。
「お前にも、俺にも、な」