「へぇ、お前も佐藤って言んだ、奇遇だな」
「え、ええ……そ、そうですね……」
「はっ、まあ佐藤なんて苗字、この世に腐るほどあるか」
僕が大会サポートの中学生だということを話したら、佐藤さんはバケツに水を汲みなおして持ってくれた。
僕は、ぼろいモップを持ってその横に付き従った。
「あの……佐藤……さん……」
「拳聖でいいよ。そのほうが、クールに聞こえんだろ?」
「拳聖さん……重く……ないですか?」
「こんなもん重いなんていってたら、ボクシングなんてできないさ」
恥ずかしいから僕はうつむいた。
うつむきながら、ちらっと拳聖さんを見上げる。
うわー、やっぱり腕太いなー。
太くて、固そうで……血管がびんびん浮いてる。
おなか周りも、脂肪なんか全然ついていないんだろうな……。
けど顔は――
「ん? どうした?」
やばっ、目があっちゃった!
「え、えと……なんでも……ないです……」
……すごい綺麗な顔してる……。
本当に、この人ボクサーなの?
男の僕が見とれちゃうくらい、綺麗な顔しているんだもの……。
――
「本当に、ここでいいのか?」
「は、はい! ここまでなら大丈夫です!」
僕のその言葉に、拳聖さんは会場入り口でバケツをおろしてくれた。
「あ、ありがとうございました!」
「おーい拳聖! 何やってんだ!」
その時、定禅寺西高校のジャージーを来た、ひげもじゃの男の人が駆け寄ってきた。
「ほれ、早くこい! ウェルター級の招集始まってるぞ!」
「ああ。すまないイシさん。今すぐ行くよ」
「あ! そういえば!」
僕は肩に掛けっぱなしのタオルを返そうとしたけど
「じゃあな少年」
拳聖さんは声をかけるまもなく会場の奥へと姿を消した。
「おや、佐藤君やないか」
忙しそうに駆け行った二人と入れ違うかのように、僕の後ろから声が響く。
「君、あの佐藤拳聖君と知り合いやったんか? もしかして、親戚とか?」
「い、いえっ! 全然違います! あの……さっき、このバケツ持つの手伝ってくれて……」
「そうやったんか。ちょうどええ。もうじき拳聖君の試合始まるから、一緒に見よか」
――
“青コーナー、大峰泰治選手、山口県下萩実業高校”
「拳聖さんは“シュガー”って呼ばれてるみたいですけど、有名な選手なんですか?」
「“シュガー”って言葉の意味、君は頭がいいから、当然知っとるよね?」
「“お砂糖”ですよね」
「そうやね。ボクシングでは、その“シュガー”という言葉には、特別な意味があるんよ」
すると佐山先生は、青コーナーの通路を目を細めて眩しそうに見つめた。
“青コーナー、佐藤拳聖選手、定禅寺西高校”
拳聖さんが右腕を上げた瞬間、会場の空気が爆発した。
「彼はなぁ、すでに高校三冠……要するに、一年生のときから全国大会に出て、無傷のままそのすべてに優勝しとるんよ」
「そんなすごい選手だったんですか? だからこんなに人気があるんだ……」
「それは半分あたりで、半分外れやね。野球なんかとちごうて、高校ボクシングはメジャーなスポーツやない。わざわざ見に来るようなそんな物好きは、まあなかなかおらんわな」
「けど、これだけの声援は――」
「あいつが魅きつけて掴み取ったんよ――このすべての観客の心を」
その言葉に、僕は入場する拳聖さんを見た。
拳聖さんは胸元にグローブを抱きかかえるようにして構えてステップを踏んでいる。
時折足をシャッフルしたり、前にパンチを出したりして。なんていうか、拳聖さんの周りだけ月旅行でもしてるみたいに、重力が小さくなったみたいだ。
拳聖さんが体を動かすたびに、黄色い声援――だけじゃない、男の人も大人の人もこどもだって、みんなため息みたいな、悲鳴みたいな、いろんなものが入り混じった声が響く。
「すごいやろ。ため息が出るやろ。なんて言うんやろうなあ……カ、カ――」
「カリスマ性?」
「そうや、カリスマ。あいつがリングに向かうその一挙手一投足だけで、あいつのことを知らん奴もボクシングなんか興味ない奴も、みんな惹きつけられよる。見てみいあの余裕綽々の顔を。信じられるか? あれがこれからリングで殴り合いをしようとする奴の顔やで? むかつくわほんまに。けど、あいつがやるとなぜか許せる。いやそれどころやない。あの飄々とした笑顔をみんなが見たくなる。あいつは……あいつこそは、天性のスターなんや」
その言葉に、僕の胸は高鳴った。
なんだろう、この人の姿を、いつまでも見ていたい。
さっきまで、人が殴り殴られるところなんて、死んでも見たくないって思っていたのに。
「あ……」
リングサイドまで近づいてきた拳聖さんは、パイプ椅子に座る僕に小さくウインクをして、拳を突き出して見せた。
僕は、心臓が破裂してしまうんじゃないかと思った。
――
カァン
ゴングの音に相手選手は腕を振り上げ、拳聖さんに襲い掛かる。けれど、拳聖さんは――
「すごい……」
僕の口からも、ため息にも似た言葉しかもれなかった。
拳聖さんはね、そこにはいないんだよ。
相手のすべてのパンチを、まるで液体のようにするするとかわすんだから。
「ボクシングには、もう一つの名前がある。知っとるか?」
佐山先生の問いかけに、僕は首を振る。
「”スウィート・サイエンス”や」
「”スウィート・サイエンス”、”甘い、科学?”」
「そうや」
佐山先生は、こくりと頷いた。
「ボクシングってのは、単なる殴り合いやない。人の持つ技術の粋を結集した、美しい科学なんや。それはすでに、野蛮さをはるかに超越した、美しく気高いものなんや」
佐山先生のその言葉に、僕は頷くしかない。
だって僕の目の前で展開されているこの光景の美しさは、とてもこれが殴り合いをしているなんて思えないもの。
そうまるで、美しいダンスだ。
「しかし、この佐藤拳聖程に、その言葉が似つかわしい男はおらんで」
リングの上の拳聖さんを、佐山先生はうっとりと眺めながら、まるで自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
「打ったら離れる、打たれずに打つ。目にも留まらぬスピードとコンビネーション。そしてそれを可能にする優れた動体視力と驚異的な当て勘。あいつは、殴られたら殴り返すというボクシングの大前提を覆すことができる男や」
拳聖さんは足をダンスのようにひゅんひゅんシャッフルし、頭を揺らし、そして目にも留まらない左のパンチは相手の顔面の真ん中を捕らえていた。
「そういう奴に余計な称号はいらん」
左の三連打から、今度は右のダブル。
ぐるりと腕を回せば、会場全体が失神しそうなほどの悲鳴に包まれる。
「スウィートにとろける“シュガー”。ただそれだけで充分や」
シュガー、甘くてとろける――
シュン――
「え?」
リングの上で、相手選手がゆっくりと崩れ落ちる。
いったい何が――
「ボクシングにおいて、もっとも科学的で技巧的で、そして美しいパンチ、それが右ストレートや。そしてそれは、この佐藤拳聖が繰り出した時、史上最高の右ストレートへと昇華される」
会場中に完成とどよめきが爆発する中、拳聖さんは相手選手を抱きかかえるようにして受け止めると、ゆっくりとマットへとその体を横たえた。
その表情は、とても殴り倒されたようには見えないくらい安らかで、まるで拳聖さんのその手で清らかな天国へと召されたようだった。
「見る者にも、放たれた者にすら痛みを感じさせずに意識を断ち切る、あのストレートを、みんなこう呼んどる」
破顔一笑、佐山先生は言った。
「“天使の右ストレート”、てな」
天使の、右ストレート――