空から舞い降りる“天使”。
この言葉に、あなたは一体何を想像しますか?
天使、なんて聞くと、そうですね、清らかな衣と水鳥のような羽、聖母マリア様に受胎告知する、大天使ガブリエルの清らかな衣をイメージされるかもしれません。
ですが、天を仰ぐ僕の下に降臨する彼女が身に纏うのは――
「――そこどいてええええええええ!」
純白のパンツでした。
※※※※※
“続きましてフライ級第三回戦、○県×高校、鈴木選手――”
――スッズッキッ! スッズッキッ! スッズッキッ! スッズッキッ!――
うわー、な、なんだよこの雰囲気。
何でみんなこんなに殺気立ってるの?
「おら鈴木ぃ! ぜってー勝てよ! 情けねーところ見せたら承知しねーぞ!」
ちょ、つば飛んでるし!
嫌だなあ……地元開催のインターハイだからって、なんで僕がこんなおっかないところで手伝いなんかしなくちゃならないんだろ……。
せっかくの休日だから、一日中ゲームをして遊んでたいのにさ……。
「おーい佐藤、何やってるんだ? 早くこっちに来なさい」
前方に響く横山先生の声に、僕は救われたような気持で駆け出した。
「あ、佐山先生。この子がうちの中学の生徒会長です」
そもそも、誰も立候補者がいないからって、無理やりやらされただけなんですけどね……。
「さ、佐藤玲、です。よ、よろしくお願いいたします……」
「大会実行委員長の佐山です。よろしくお願いします」
関西方面のイントネーションに更に緊張しながら、僕はごつごつした大きな手を握り返した。
「ははは、そんなこわがらんでもええやろ」
ジャガイモのようないかついその顔は、笑顔とともにとたんに柔らかくなった。
「まあ私自身も少々驚きました。こんなに殺伐というか、殺気立った雰囲気は初めでですよ」
「まあインターハイですし、見ているほうも気合が入るんですわ。それに何とゆうても――」
「――アマチュア・ボクシング、ですからね」
横山先生は腕組をしてリングを見つめた。
殺気だった声援が会場中に響く。
タンクトップにトランクス、頭に何かかぶってグローブをした人たちが、何度も腕を振るう。
パンッ、パンッ、パンッ
うわー、何この音。
こんなにいい音させて人を殴っても大丈夫なの?
なんで人の顔なんか躊躇なく殴れるの?
ゲームじゃないんだよ?
生身だからね?
三次元だからね?
目の前で人が殴られているのがそんなに楽しいわけ?
マットには血とかわけのわからないものが布団のカビみたいに染みが広がっていたじゃないか……。
早く帰ってゲームやりたいよ……。
「え、えっと、それじゃあ、僕は何をしたらいいですか?」
――
「……えーっと、この辺に……あ、あったあった」
僕は、体育館のトイレの脇にある清掃ロッカーを何とかこじ開けた。
僕に任された仕事は、試合の合間合間のリングのモップがけ。
んと、モップとバケツがあればいいんだよね。
古ぼけた水道をひねると、勢いよく水が飛び出る。
よし、これでいいかな。僕はモップを取り出してよくゆすぐと、きつく……僕の腕力じゃそう大してきつくもないけど、それでも何とか……っと……絞る。
こ、こんなもんかな?
じゃあ、バケツを持って、っと――
「――ん、んっと!」
ちょ、ちょっと水大目に入れすぎたかな?
とりあえずモップは後回しだ。
僕は両手でよろよろとブリキのバケツを持って、試合会場に通じる廊下を歩いた。
「くそがあっ!」
ひっ!
な、なんだよ一体……。
「ジャッジおかしいだろ! 何で俺のほうが判定負けなんだよ!」
「す、鈴木さん落ち着いてください!」
あ、あの人はもしかしてさっきの……いまのは、拳で壁を殴りつけた音かな?
「どう見たって俺のほうがクオリティーブローの数、多かっただろうが!」
うわー、嫌なもん見ちゃったな……。さっさと通りすぎようっと……。
「じゃあ何でお前らがその場で抗議しろって言わなかったんだ? つかえねえ連中だ!」
「うわっ!」
「え?」
――
あっ、いたたたたたた……。
何だよもう……乱暴だなぁ。
?
あれ?
あれあれ!?
バ、バケツがない!
あ、あった……空っぽ……周りも水浸し……もしかして……。
「なにしやがんだこのガキィ!」
「うわあああああああっ!」
「びしょびしょじゃねえか! どう落とし前つける気だぁ!?」
やばいやばいやばい!
バケツの水、鈴木選手にかけちゃったっ!
「す、すいません! わ、わざとじゃないんです! あ、あなたがこの人突き飛ばして……」
「なんだと? 俺のせいだってのか?」
や、やめてよ……そ、そんなに胸倉掴まれたら……く、くるっしい……息が……。
「や、やめてください鈴木先輩! ばれたらそれこそ……」
「うっせんだよ! てめえらは黙ってろ!」
な、なんでだよ……僕が悪いわけじゃないのに……。
「めんどうくせえ。おらっ!」
「痛っ! げほっ、げほげほっ!」
壁コンクリートなのにそんな強くぶつけなくても……。
け、けどこれで……助かったの――
「おら、一発殴らせりゃそれで終わりにしてやるよ」
え?
ちょ、ちょっと待って!? 殴られる? 僕が?
「す、すいません! ふ、服もクリーニング代とか、弁償しますから!」
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
殴られるなんて嫌だ。
痛いのなんて死んでも嫌だ!
「この通りです! 許してください!」
土下座しよう。
びしょびしょの床に両手をついてますよ?
何度も何度も、頭を床にこすり付けていますよ?
だから許してください。
痛い思いをするくらいなら、プライドなんて――
「けっ、そこまでして逃げようって魂胆が、ますます腹立つぜ」
僕は服を掴まれ、無理矢理立たされた。
「おらぁ! 歯食いしばれ!」
ああなんで僕がこんな目にあわなくちゃならないんだ。
もう一生ボクシングなんて見ない。
関わりたくもない。
夢であって欲しい。
助けて――
「うらぁっ!」
……あれ?
痛くない?
ていうか、何の感触もない。
ちょっとだけ目を開けて……白い布にくるまれた何かが……何かが鈴木選手の拳をしっかりと受け止めてる。
「なにしやがんだこの野郎!」
「あんたの体とこの周りを見たら、何がおこったかは想像つくよ。バンタム級代表鈴木サン」
目の前から、その物体が消えた。
それは拳。
布にくるまれた拳だった。
「けどあんたは県の看板背負ったボクサーだ。こんな真似、するべきじゃない」
その拳の持ち主は、身長は僕よりずっと高くて……一八〇センチ近い長身だ。
タンクトップから見える腕は太くて胸板も厚くて……すごく綺麗な体をしていた。
「あんだと? てめえに関係あんのかよ! 大体なあ――」
「鈴木さん! やばいすよ鈴木さん! こいつ……こいつのゼッケン……」
“静岡県定禅寺西高校・佐藤拳聖”
なぜだろう。
目の前の分厚い背中に書いたその文字が、僕を陶酔させる。
「て、てめえは……“シュガー”……」
どうしてだろう。
その言葉“シュガー”は、僕の気持ちをいっそう高揚させる。
「――もうその辺でいいだろ。一時のいらつきで、ボクサーの看板汚すなよ」
「鈴木さん……もう……」
「うっせえ!」
後輩の腕を振り払うと、鈴木選手は捨て台詞をぶつぶつ呟きながら立ち去った。
「悪く思わないでくれ。あいつも負けてイラついててさ。きっと悪気はなかったんだ」
その人、佐藤拳聖さんは、持っていたタオルを僕の肩に掛けてくれた。