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第21話 リュティエ公爵の驚愕 中

 リュティエの目がキラキラと輝いた。

 吸い込まれるようにして作品を覗き込み、熱心にその表現に釘付けになった。


 ゆっくりと呼吸を吐き、自分の吐息が大切な絵にかからないように気をつける。

 そして、わずかな変化も見逃さないとばかりに、目に力を込めて、じっと観察する。


 白と黒の濃淡。かぎりなく淡く薄い黒、あるいは灰色。

 紙はとても白く、その上に薄く黒の塗料が塗られている。


 これは何だ……?


 モチーフはすぐに分かる。

 風景画だ。


 細長い縦長の紙に、極めて美しい筆致で、風景が描かれていた。

 高い山に足場もないような崖、降り注ぐ滝、針葉樹が生えている。


 全体を覆うのは朝靄あさもやか、あるいは霧か。

 限りなく薄まった塗料のためか、ぼやけた風景の玄妙さといったら、神がかっている!


「リュティエ様、触れないようにお願いいたします」

「おっと、すまないね……。思わず没頭してしまったようだよ。いったい、これは何なのだろう……?」

「俺の口から解説を聞く前に、作品の雰囲気を余すことなく受け止めていただきたいですね」

「分かっているよ……ワタシとしたことが」


 ワタルという商人の言う通りだった。

 芸術品の鑑賞は、まず自分の感性をしっかりと働かせることが大切だ。


 時に知識は偏見を植え付ける。

 物事をまっすぐに、まったくの予備知識なく見ることで、ただただ見た印象を得ることが出来るのだ。

 具体的な手法や作家については、一度目を終えて、再度見れば良い。

 新しい視点を得て、より立体的に物事を見られるようになる。


 いや、しかしこれはすごい。

 最初は確かに灰色の墨の色だけに見えていた。


 だが、じっくりと観察すれば、徐々に木々は青々しく、流れる水は瑞々しく水の色がついているようだ。

 また、錬金画法・・・・による実感術も用いられていないというのに、驚くほど絵に奥行きが感じられる。


 これは平面でありながら、とてつもない立体を感じる一枚だ。


「う、うむむ……見れば見るほど驚きが湧き上がる。なんなんだいこれはっ!」

「ムムムム、なんという素晴らしい絵画なのだっ、こっ! こんな物は見たことがないぞおおおおお!」

「……うるさいよ、モイーくん。相変わらず良いものを見ると我を忘れるんだなあ」

「す、すまない、リュティエ……。つい、な」

「えっ、モイー卿が一瞬で我に返ってるっ……!!」


 まったく、貴族でありながら我を忘れるなんて。

 リュティエは呆れながらも、自分もまた高揚し、落ち着きを失っていたことを思い出して、顔を赤面させた。


 目の淵がさっと赤みを増す。

 いけない。貴族たるもの、冷静でなければ。


「しかしこの靄の表現が素晴らしいね。くっきりと描かれた場所から、滲んだ場所への移り変わりが、空間の差を非常に上手く表現している……」

「幽玄や玄妙、などと評されることの多い作品です」

「そうっ、幽玄だ! まさにそうとしか言いようがない!」


 リュティエは太ももを叩いた。

 頭の中で引っかかっていた、気持ちの悪いものがパッと取り除かれた気持ちだった。


 幽玄。玄妙。

 なんとピッタリな作品だろうか。


 あるべきものを、あるべき形でしっかりと、クッキリと象る。

 それこそが、リュティエの哲学だった。


 それは政治家として、為政者としてのリュティエを高みに押し上げた。

 曖昧な調査、政策を好まず、常に具体的でしっかりとした効果を測定するのだ。


 それは自分の作風にも現れていた。

 それこそが至高である、もっとも優れた表現技法である、と口にはしないものの、確信を覚えていた。


 だというのにこれは……。

 完璧な信念が、哲学が揺さぶられる。


 まるで作品に影響を受けたように、クッキリとしていた自己像に、『おぼろ』が、かすみがかかったような――。


 クラリ、と視界が揺れた。


「大丈夫か、リュティエ!?」

「あ、ああ……。心配ないよ、モイー君」


 とっさにモイーに抱えられていた。


「手。いつまで肩を抱いているんだい。ダンスの時間じゃないんだよ」

「す、すまない。心配だったのだよ。我の招待した作品で、健康を損ねたとなれば、経歴に傷がつくからな」


 憎まれ口を叩きながらも、モイーの目は心配の色を濃く残している。


 掴まれていた方が、今もじんわりと、どこか温かい気がする。

 あの時……君の言葉に頷いていたらどうなっていたのだろうか。


 ふっ、とリュティエは笑った。


「いや……本当に見事な作品だった。ワタシは正直、期待していなかったんだけどね。こんな作風があるとは……。ぜひとも手に入れたい」


 この衝撃。これまでの自分の美の価値観を、大きく揺るがすだろうが。

 手に入れて吸収すれば、より新しい作風が自分の中に芽生えるに違いない。


 そう思えば、居ても立っても居られなかった。

 幸い、というべきか、リュティエには貴族の中でも有数の冨がある。


 私費としてすら、他家が歯ぎしりして羨むほどの財貨が溜まっていた。(というか、そうでなければモイーが懇意にするような商人とは、そもそも会わせてもらえない)


 だが、予想外に。

 ワタルは困った表情を浮かべたではないか。


 そして、おずおず、といった様子で話し始めた。


「実はこの作者、すでに亡くなっており、他の商品をご用意することができませんでした……。作者は寡作で、他の所有者から購入は叶いそうにございません。そこで、リュティエ様とモイー様、どちらか一方にのみ、販売させていただければと思います」

「な、なんだと、ワタル! 話が違うではないか!」

「善処いたします、と申しました。作品は作者をせっつかせれば作れるものではありません。蒐集家であるお二方ならば重々ご理解いただけるものだと思います」

「むっ、まあそれはそうだね」

「グムム……! ということはだ、我と君とで競り合うわけか……」


 財務次卿として栄達してきたモイーだが、府庫に収めた財貨の数ならば、リュティエはむしろ多いほうだ。

 どちらがこの作品を手に入れるべきか。

 さあ、勝負といこうじゃないか。

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