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第10話 綾乃小雪との再会

 小雪を最後に見たのは、喫茶店で化粧水を販売した時だ。

 元々渡でも知っているような大女優に出会え、かつ商品に満足してもらえたのは、大きな自信になっている。


 それからは、歌手の若井満と交際を始めたらしい、との話を若井から聞いていたが、直接は対面していない。

 販売当日、お試しで使っただけでも、かなりの効果があった。


 あれから一年間使い続けたことで、どれほど変化があったのか、再会が楽しみだった。


 前回と同じように、渡たちは喫茶店で異世界に販売する珈琲豆の焙煎をしながら、約束の時間を待った。

 店の中にはジャズが流れ、焙煎したてのコーヒーの香りが強く漂う。


 交渉にはいつも、少し早めに店に入って準備を整える。

 先に準備を整えることが、交渉事を優位に進める気持ちを作るのに大切だと、最近理解が進んできた。


 自分のホームでやること、周りに信頼できる人を置いておくこと、そうした準備の一つ一つが、交渉を優位に動かしてくれる。


 カランカラン、とカウベルが来客を告げ、帽子にサングラスをしたワンピース姿の女性が入ってきた。

 有名女優だけあって、尾行や記者たちの対策はしっかりとしているのだろうが、スラリとしたシルエットはあきらかに素人とは隔絶していて、何らかの芸能人であることは隠しようもなかった。


 只者ではないことは分かっていても、誰か・・分からせないことが重要なのだろう。

 店に入った綾乃は、サングラスと帽子を外し、素顔をさらけ出す。


「ご無沙汰しています、堺さん」

「……お久しぶりです、綾乃さん……」


 渡は唾を飲み込んだ。


 元々時代を代表するような美人女優だった小雪だが、あれからも少しずつ『温泉の素』を使い続けていただろう。

 久しぶりに再会した綾乃小雪だったが、その美貌は依然よりも遥かに高い水準にあるように思えた。


 というよりも、明らかに時間の流れを無視して若返っている。


 いや、綺麗ってレベルじゃないぞ。

 マリエルやエアたちといった美少女を見慣れている渡でさえ、思わず見惚れるような、惚れ惚れとする美しさがある。


 かつて彼女が気にしていた、目尻の小じわやほうれい線はなくなるだけでなく、シミやソバカスは一切が消え、それどころかパッと見て分かる肌の質感は、十代でも通用するほどに瑞々しく張りがあり、きめ細やかだった。


 何よりも、十代の肌をしていても、綾乃本人は女性としての年輪を重ねてきたのだ。

 ちょっとした仕草や匂い立つような色気もあって、外見の若々しさとはチグハグな感じが、より不思議な力をもって人を魅了する。


 巷では若返りの美魔女ならぬ、『若返りの美少女』などと呼ばれているらしい。


 呆けていたのは渡だけでなく、マリエルやエアもぽかんと見惚れているし、クローシェもステラも、間違いなく魅了されているようだった。

 渡も視線が吸い寄せられて、目を外せない。


「……見られ慣れてる仕事とは言え、さすがにちょっと恥ずかしいです」

「はっ!? 失礼しました。どうぞ、こちらに。今コーヒーを淹れますね」

「よろしくお願いします。前に飲んだの、とても美味しかったから楽しみ」

「こ、今回も満足してもらえると思いますよ」


 ニコッと綾乃が笑みを浮かべると、頬にえくぼが浮かんだ。

 目が本当に楽しそうに笑っているのが分かる。


 やべえ、なんだこの魅力は。

 顔が熱くなって、胸がドキドキしている。


 若井さんと付き合ってなかったら、年齢差を無視して、お近づきになりたいと思っていたかも知れない。

 ちょっとした仕草が相手にどう映るかを極めた、一握りのプロなのだ。


 自分の表情が相手にどう影響するかは十分に承知の上だろう。

 できるだけ平静を保てるように意識しながら、コーヒーを淹れる。


 コポコポと円を描くように湯を注ぐ。

 フィルターを通して、黒ぐろとした液体が溜まっていく光景を見ると、心がいつも落ち着いてくれる。


「どうぞ」

「ありがとう。……んっ、美味しいっ……」


 ある程度歳を重ねた女優は、飲み物を飲む時にあまり顎をあげないそうだ。

 首の小じわはどうしても対処が難しいから、とのことだが、綾乃は気にした様子もなかった。


 目を閉じ、かすかに顔を横にふる姿は、間違いなく満足しているのが分かる。


 渡も対面に座って、自分で淹れたものを飲んだが、やはり美味しかった。

 コーヒーは豆の品種をこだわることも大切だが、同時に焙煎度合いで大きく味わいや風味が変化する。


 店を始めて、自分好みの味わいに調整できたのは、秘密の販売拠点という意味以外でも、大きな利点だった。

 少し気持ちが落ち着いてきたあたりで、渡たちは依頼されていた商品をテーブルに置いた。


 碧流街の源泉近くで販売されている『温泉の素』だ。

 温泉成分を濃縮したもので、現地の価格も相当に高い高級品だ。


 実のところ、利益率だけでいえばポーションよりも低い上、量産化できない品でもあった。

 それだけに美容面という観点で見れば、唯一無二の効果、強みが得られる。


 綾乃の目がうっとりと『温泉の素』に注がれた。

 おそらくは誰よりもその効果を実感しているのだろう。


「おかげで最近は依頼される役もちょっと変わってきて、また二〇代の頃の仕事とかも入るようになったの。お母さん役も大切だし、やりがいはあるけど、やっぱりヒロイン役ができるのが嬉しいのもたしかなのよね」

「いやあ、全然通用するっていうか、観たがる人がいっぱいいるんじゃないですか」


 お世辞抜きにそう思う。

 視聴者の多くも同じ気持ちなのだろう。


 もとより忙しい人だったが、いまや観ない日はないぐらい、テレビもネットも舞台も、色々な場所で出演を続けている。


「これを使い始めてから、周りからすんごい反応だったのよ。教えて教えてって皆から言われて、秘密にしているのが本当に大変だったんですから」

「それはもう、そうでしょうね」

「交際中だって分かっていても言い寄ってくる人が増えたり、酷い時だと秘密を探ろうと楽屋の荷物を勝手に漁られたこともあって……」

「それは酷い……」


 綾乃の変化を見ていれば、誰もがその秘密を知りたくなるだろう。

 巷では怪しげな新技術によるものではないか、あるいは美容整形で大規模な手術をしたのではないか、など、様々な憶測が流れていた。


 特に美意識の高い芸能界では、それが自分の商品価値を高め、仕事にも関係するのだから、余計に知りたいだろう。


「下の子とかなら内緒にするのはまだできるけど、お世話になった恩人の人とか、業界に凄い力を持つスポンサーの奥さんとか、そういう人たちから頼まれたら、なかなか無理とは言えないんですから」

「ああ、それはたしかに断りづらいでしょうね」


 多くの人間が集まって作品を作る芸能界では、なおさら上下や横のつながりは色濃く、重要になってくる。

 たとえ綾乃小雪が芸能界きっての有名女優だとしても、断るのが難しい人も多いだろう。


 それでもこの一年弱、綾乃の紹介で商品を売ってくれ、と突撃してくる人は一人もいなかった。

 彼女は間違いなく約束を守ったのだ。


「今回も三本で良かったですか?」

「できれば、五本欲しいんですけど……ダメかしら?」

「いえ、在庫はあるので、ダメというわけではありませんが……」


 小首をかしげて、こちらを伺うような綾乃は、対面の間近で見れば恐ろしい魅力、破壊力をもっている。

 思わず、一も二もなく頷いてしまいそうになるが、かろうじて危機感が働いた。


 前回は三本で約一年使えていたのだ。

 本数が増えた理由は気になる。


「それはご自身だけが使用するということで、間違いありませんか?」

「もちろん。大切に人の目に触れるところを中心に使ってるんですけど、やっぱり人目につくつきにくいところも綺麗にしたいじゃない」

「分かります! 綾乃さん!」

「分かってもらえて嬉しいわ」

「そ、そうか……。マリエルがそう言うなら、そうなんだろうな」


 マリエルが突然強く同意を示した。

 心音や臭いから本心か否かを判断しているエアとクローシェも何も言ってこないところを見るに、嘘ではなく本心なのだろう。


「それに残りが少なくなっていくと、手に入るかどうか不安になってたんですよね。販売されてるのがこちらだけだし、大手の会社が出してる大量生産の商品ではないので」

「ああ、なるほど……。うちが辞めたら手に入れる術がなくなるわけですもんね」

「そう! 一度手に入った若さが失われると思うと怖くて」


 渡にはまだ分からない話だが、綾乃の言葉は真剣で、切実だった。


 温泉の素は高級品だが、その効能を考えれば綾乃からすれば支払えない金額ではない。

 むしろ投資として考えれば、破格の値段といえる。


 とはいえ、人目につかないところか。

 一体どこに使うのやら。


 きっとその効果は、恋人である若井満だけが知っているのだ。

 羨ましくなんかないぞ。


 綾乃が商品と引き換えに、口座へと振込を完了する。

 小さな鞄に、とても貴重なものを扱うように、丁寧に収めた綾乃は、表情がほころんで安心しているようだった。


「ああ……良かった。本当にありがとうございます、ホッとしました。これが手に入らなかったらと思うと、不安で」

「心配していただかなくとも、ちゃんと約束を守っていただけるなら、こちらこそ今後も継続してご利用いただきたいと思っていますよ」


 化粧品も薬機法の加減で、販売が難しいのだ。


「それで、もし良ければなのですが、こちらの商品を、私の親友の美緒にも販売してもらえませんか? 彼女、すごく悩んでるんです」


 綾乃の質問に、渡はわずかに口を閉じて考えた。

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