光が収まった時、空気が変わったのを感じた。
他者からの認識阻害が正常に動作しているからだろう。
一種の異界とでも言うべきか、注目を集めていないことが分かった。
短時間ではあるが、驚くほど深い没入をしていたからか、ラスティが立ち上がろうとした時に、足元をふらつかせた。
渡が駆け寄ると、ラスティがそのまま胸元にぽすりと入り込む。
軽く甘い花の香りがした。
ラスティはすみません、と軽く断るも、まだ本調子とは言い難い様子だった。
ほっそりとした美しい手が、助けを求めるようにきゅっと渡の手を握った。
柔らかでスベスベ肌の手は、少しひんやりとしている。
「儀式は、せいこうしました」
「スゴイですね! とても神秘的な光景で……見ているだけで神々しくて感動しました」
「上手くイキましたから、良かったです」
「あ、あれ、自信満々でしたよね?」
「あれは強がっていただけで……わたくしめも初めての体験だっただけに、とても緊張しました。でも、実際に試してみると、激しい魔力が注がれて、神気が出たり入ったりして、何度も頭が真っ白になって、無我夢中になってしまいました……。ふぅ……」
「そ、そうだったんですね……」
こもった熱を吐き出すような色気のある溜息に、思わずドキッとしてしまう。
神秘的な儀式を行ったからか、ラスティは明らかにトランス状態にあるようだった。
目がトロンとしていて、頬が赤く上気している。
開いた口からはザラザラとした長い舌が垂れていて、唾液にテラテラと輝いている。
どことなく呂律も上手く回っていないのか、発声がおかしく感じられるところが多々あった。
足腰にも力が入らないのか、膝がカクカクと笑っている。
「ワタル様……?」
「あ、いえ、もう体調は大丈夫ですか?」
「いえ、すみませんが、もう少しだけ支えていただいてよろしいでしょうか」
「あー、わかりました」
変な反応をするなよ。
散々白い目で見られたばかりだったこともあり、渡は自分に強く言い聞かせていた。
だが、どこを触れても柔らかな感触といい、ラスティの角がわずかに渡の肩をこそこそと触れていくこともあって、渡の理性はガリガリと削られていく。
「儀式はしっかりと目に焼き付けてもらえましたか?」
「ええ、それはもちろん」
「恥ずかしいですが、私も勇気を振り絞ったかいがありました。もしワタル様が試して分からないことや上手く行かないことがあれば、遠慮なく相談してくださいね。手取り足取り、エスコートさせていただきますから」
「よ、よろしくおねがいします……」
しばらくラスティを抱きかかえたまま移動する。
その間、マリエル達によってゲートの起動が無事に確認できたが、ラスティはいまだ忘我の境地にあるのか、うっとりとした表情で渡の胸元に体を預けていた。
時折うっとりと目を閉じて、渡に顔を埋めたりもする。
そのたびに柔らかな体が密着し、渡は自分に自制を求めることになる。
反応するな。クールになれ。
ラスティは親切で言ってるだけだし、この行動には意味はない。
渡の頭の中での強い自制の声は、実際の内容までは伝わらずとも、体臭や心音、気配などで筒抜けだったのだろう。
がんばって自制していたのに、見抜いていたエアとクローシェからは冷たい目で見られてしまった。
ちゃうねん……。これはちゃうねん!
誰も口に出して非難しなかったために、渡もまた弁解の機会を与えられることはなかった。
◯
ゲートもできたということで、いよいよハノーヴァーへのちょっとした旅も終わりを告げようとしていた。
本当はそれこそ数ヶ月かけてもおかしくない距離だから、ゲート様々である。
「じゃあ帰るか。忘れ物はないよな。また来るとはいえ、しばらくは来ないから大切なものを忘れてないか、確認しておいてくれよ」
「了解しました。念の為もう一度やっておきます」
マリエルと話をしていると、玄関に駆け足でやってくる人がいた。
誰かと顔を向ければ、そこには初回に顔を合わせて以来、姿を見なかったスウェルがいた。
女将さんから聞いて無事を知っていたが、気まずかったのか、なかなか直接会う機会がなかったのだが、自分たちが帰ることを知ったのかもしれない。
ハノーヴァーでの騒動の多くが、スウェルが端緒となったために、渡個人としては、あまりいい印象のない少年だ。
だが、マリエルの手前、渡は何も言わなかった。
彼女にしてみたら、地元の大切な知り合いの一人なのだ。
「マリエル姉ちゃん……、あの日は、ひどいこと言ってゴメン」
「スウェルくん……。良いの。気にしないで。急に帰ってきて、ビックリしたんだよね。とても心配してくれてたって、お母さまから聞いたの。ありがとう」
「…………うん」
本当はもっと言いたいことが一杯あっただろうが、スウェルは口をもごもごとして、上手く言葉にできないようだった。
そして、結局はすべてを飲み込んで、頷く。
すでに過去は過去のことを割り切ったのか、スウェルの表情はどこかさっぱりとしたものになっていた。
マリエルが奴隷の身分になったのも、どうしようもない事態に巻き込まれたためだ。
そして、結果的にマリエルはスウェルの手の届かない存在になった。
正確には渡のものになったのだ。
そんな結果を飲み込み、一つ大人の表情を浮かべるようになったスウェルに、マリエルが小走りで近寄ると、その手をギュッと握った。
「うわっ、すごいタコ」
「ちょ!? マリエル姉ちゃん!?」
「スウェルくんの手、カチカチですね」
手をニギニギと握られて、スウェルが顔を真赤にして慌てふためいた。
そんなドギマギとしている少年に対して、マリエルは楚々とした笑みを浮かべている。
「頑張って訓練してたんですね。昔に約束した騎士になるって夢は大変だと思うけれど、スウェルくんならきっとできますよ」
「……っ! う、うん! 俺、きっと立派な騎士になる! 道は厳しいかもしれないけど、きっとなれるように目指すよ」
「応援してます、頑張ってね」
マリエルの態度を改めて見て思うが、距離の詰め方が自然すぎて怖い。
すっと懐に入って、異性のハートをガッツリと掴んでしまう。
自分の過去を振り返れば、マソーの奴隷商会でマリエルを初めて見た時も、自分からすっと売り込みにかけてきて、一瞬にして魅了されてしまった。
今もまた、スウェルはじん、と胸を打たれたようで、とてもやる気になっている。
言っては悪いが、ようやく初恋の女性を振り切ろうとしているスウェルに対して、マリエルの態度は非常に良くないように思えた。
今は、再びマリエルに魅了されているのか、顔を赤くして眩しいものを見るような目で見つめている。
城門を潜ってゲートに向かうまでの間、姿が見えなくなるまで、スウェルはずっとマリエルを見ていたようだった。
スウェルだけでなく、そんな少年が町の中から何人もいて、同行している渡たちなど眼中にない様子で、皆一様にマリエルに熱い視線を送っていた。
「マリエル、ずっと手を振ってるぞ」
「はい、皆さんとても優しいですよね。素敵なお友達ばかりだったなって、あらためて幸せに思います」
「そうか……」
罪づくりな女……。
女将さんを始めとした町の中年女性が、マリエルと仲良くしながらも、少し呆れた態度を取っていた理由が分かる気がする。
年頃の男の子にとって、マリエルの魅力は魔性であり、一種の猛毒だろう。
確実に何かしら歪まされた子が続出したに違いない。
主人と奴隷という立場で出会ってよかった、と渡は不謹慎ながら思った。
これが異世界のホステスのような立場でもし出会っていたら、渡は持ち金のすべてを失うまで散財させられていたかもしれなかったから。
マリエルは何も気付かず、それこそ清楚な笑みを浮かべていた。